「奇跡の治療薬」の政治経済学:アルゼンチンにおける噴霧型イブプロフェンとその普及の事例

というNBER論文が上がっている。原題は「The Political Economy of a “Miracle Cure”: The Case of Nebulized Ibuprofen and its Diffusion in Argentina」で、著者はSebastian Calónico(コロンビア大)、Rafael Di Tella(ハーバード大)、Juan Cruz Lopez del Valle(ボストン大)。
以下はその要旨。

We document the diffusion of nebulized ibuprofen in Argentina as a treatment for COVID-19. As the pandemic spread, this clinically unsupported drug reached thousands of patients, even some seriously ill, despite warnings by the regulator and medical societies. Detailed daily data on deliveries for all towns in one of the largest provinces suggests a role for “rational” forces in the adoption of a miracle cure: towns adopt it when neighbors that adopt it are successful in containing deaths (a learning effect), even after controlling for the average adoption of peers. Results from a survey are consistent with learning. They also reveal a large role of beliefs: subjects that are classified as “Right” are more likely adopt and to learn, while those that are “Skeptical” report an increase in their demand when primed with the regulator’s ban.
(拙訳)
我々は、アルゼンチンで噴霧型イブプロフェン*1がコロナ治療薬として普及したことを立証する。コロナ禍が広がるにつれ、臨床的な裏付けのないこの薬が、規制当局と医療業界の警告にもかかわらず、病状が深刻な者まで含めて、数千人の患者に配布された。最大の州の一つにおける全ての町*2への配布に関する詳細な日次データは、奇跡の治療薬*3を採用する際に「合理的な」力が果たす役割を示している。その薬を採用した近隣の町が死者数を抑え込むことに成功すると、当該の町もそれを採用するようになる(学習効果)。これは、同様な町*4における平均的な採用についてコントロールした後でもそうである。サーベイ調査*5に基づく結果も、学習効果と整合的である。その結果はまた、信念が果たす大きな役割も明らかにした。「右派」と分類された対象*6は採用と学習の可能性が高くなる。また、「懐疑的」な人々*7は、規制当局による禁止について知らされると、需要を高めると回答した。

*1:本文ではNaIHSと略している。本来は嚢胞性線維症の治療薬で、簡易な吸入器で肺に直接高濃度で送り込めるとの由。

*2:本文によれば、アルゼンチン第二の州であるコルドバ州において人口の99.67%を占める491の町との由。実際にNaIHSを採用したのはうち37%の184の町で、そのうち全体の13%に相当する64の町は最終的に利用を中止したとのこと。

*3:論文では、承認された薬、藪医者などが主に金銭目的で処方する非科学的な薬のいずれでもない第三の種類の薬として「奇跡の治療薬」を定義している。当局が禁止してはいるが純然たる詐欺ではなく、金銭的な利得があまりない専門家でさえ熱心に推奨することがあるような薬との由。

*4:本文では「 “peers” (defined as geographic neighbors)」と定義している。

*5:コルドバ州ネウケン州ブエノスアイレス州ブエノスアイレス自治市の4,861人を対象にしたサーベイ調査を実施したとの由。

*6:コルドバ州の町の分析では、2019年の大統領選での中道右派の野党候補マウリシオ・マクリの得票率から中道左派の与党候補アルベルト・フェルナンデスの得票率を差し引き、それがゼロより大きければ1とするダミー変数を用いたとの由。サーベイ調査では、中道右派のマウリシオ・マクリ前大統領への評価と中道左派のクリスティーナ・キルチネル元大統領への評価の差から、右派、中道、左派の変数を構築したとの由。

*7:サーベイ調査における6つの質問への回答において第一主成分が中央値より大きい人に1を立てる形でダミー変数を構築したとの由。6つの質問が対象としたのは、ラウールの一件についての考え、政府、科学者、企業への不信、医者の勧める検査を受けるかどうか、および、ルーダ・マチョに対する考え。ディディエ・ラウールはフランス人医師で、コロナ治療薬としてヒドロキシクロロキンを推奨し、一時期はトランプ大統領をはじめとしてそれが広く使われたが、後に規制当局やWHOの専門家パネルから疑義が提示されて批判され、ラウールは調査の対象になった。それに対しラウールは、同様に決定的な結果は出ていないがより高額のレムデシビルを売りたい医薬品会社による攻撃だ、と反論したとの由。研究ではこの一件について陰謀論的な考えを示すかどうかを捉えるような質問を設定している。医者の勧める検査を受けるかどうかを論文ではカウボーイ変数と呼んでいるが、これはCutler, Skinner, Stern and Wennberg (2019、Physician Beliefs and Patient Preferences: A New Look at Regional Variation in Health Care Spendingf - PMC)で現行の診療基準を超える検査を求める医者をカウボーイと呼んだことに基いている。ルーダ・マチョ(ruda macho、ヘンルーダの一種、cf. アルゼンチン料理 - Wikipedia)は、論文によればリウマチへの薬効や厄除け効果を持つと南米で広く信じられているとのこと。