一昨日のエントリに対し、okemosさんからはてぶで以下のようなコメントを頂いた。
「米国政府はさすがにクリストフ氏よりはまだまともなスタンスを取っている」 まともどうこうはともかく、米国が尖閣諸島の為に中国と武力衝突する事はないというクリストフ氏の発言は正しいと思うのだけれど。
それに対し小生は、同エントリの追記(脚注)で以下のように書いた。
「まとも」という表現に対しはてぶでokemos氏から物言いが付いたが、ここでは日米安保条約の抑止力を念頭に置いている。××のために安保条約が発動されることは無い、という発言をすることは、そのまま同条約の抑止力を減損することにつながる。もちろん、クリストフのようなジャーナリストがそう発言するのは自由だが、さすがに米政府がそのように発言して自ら抑止力を損なうことは無かった、というのがここでの含意のつもり(逆に実際にそのような言動を取って抑止に失敗したのが今回取り上げたラインラント進駐からミュンヘン宥和への流れであり、あるいは、米絡みで言えば朝鮮戦争や湾岸戦争である)。
この抑止力というのは、冷戦時代に国際関係論を少しでも齧った人ならば否応無しに耳にした重要な概念である。
確かに尖閣諸島のために米国が中国と武力衝突することは無いかもしれない。しかし、中国がそれを確信した瞬間、同諸島への日米安保条約の抑止力は一気に消滅する。そして、中国は実際に武力行使に踏み切るかもしれない。その結果、尖閣諸島が完全に中国の支配下に置かれれば、米国の同地域への影響力は必然的に弱まる。
逆に、尖閣諸島にもひょっとしたら米軍が出てくるかもしれない、という疑念が中国側に残っていれば、中国は武力行使を思い留まるだろう。その結果、米国の同地域への影響力は保たれる。従って、たとえ内心ではその意思が無かったとしても、米国は、武力行使の可能性があると匂わせておいた方が得になるわけだ。これが抑止力ということの一つの意味である。
見方を変えれば、これはまさに経済学で言う期待の概念を扱った話である。試しに、上記の話を中央銀行とデフレ期待の話に置き換えてみよう。
確かに中央銀行には一度流動性の罠に陥った経済を脱却させる能力は無いかもしれない。しかし、民間の経済主体がそれを確信した瞬間、インフレ期待は一気に消滅する。そして、デフレ期待が実際に定着してしまうかもしれない。その結果、流動性の罠の状態が固定化されれば、金融政策の経済への影響力は必然的に弱まる*1。
逆に、中央銀行にはひょっとしたら適度なインフレ目標を実現する力があるのかもしれない、と民間主体が思っていれば、デフレ期待は定着せず、インフレ期待が残るだろう。その結果、経済は流動性の罠から脱することができる。従って、たとえ内心では信じていなかったとしても、中央銀行は、自分にはインフレ目標を実現する力がある、と民間に思わせておいた方が得になるわけだ。これが中央銀行にインフレ目標を課すことの一つの意味である。
また、このように考えると、ニコラス・クリストフの言動は、日本のリフレ論争における反リフレ派の言動のようなもの、と考えることもできそうである*2。
*1:[追記]
そうした経済の弱体化が続けば、結局、中央銀行は、自らは忌み嫌っている思い切った非伝統的な金融政策に踏み切ることを迫られるかもしれない。上の抑止力の喩えで言えば、武力紛争を忌避して抑止力を後退させたがために、自分としては容認し難いところまで相手の進出を許してしまい、結局、大規模な武力衝突に踏み切らざるを得なくなる、という状況である。これは、前回引用したキッシンジャーが
“こうした政策は、その提唱者が、「万一そうした政策が失敗に終わった場合、必要とされる最終的なコストが年を経るごとに幾何級数的に増大していく」ということを理解している限りは、合理的なものであった。”
と皮肉った方向性に他ならない。
*2:[追記]
そうした反リフレ派の言動の果たす役割については、たとえばokemosさん自身のこのエントリが参考になろう。