昨日と一昨日、日本の経済学者に対しやや挑発的なことを書いてしまったが、今日はさらに挑発的なことを書いてみたい。というのは、最近、経済学は我々プロの仕事だ、素人は引っ込んでいろ、と言わんばかりの言動を続けて目にしたのだが、そうした言動から昔読んだ本の文章を想起してしまったからである。以前もその本、即ち先日亡くなった永井陽之助氏の「現代と戦略」、から軍事ケインズ主義に関する文章を引用したが、今日はプロフェッショナリズム信仰の陥穽について書かれた文章を引用してみたい。
要するに、1914年、戦争によろめき入ったとき、ヨーロッパ諸列強の政治家、軍人は、「軍の巨大機構の運動が始動した瞬間から、すべてアマチュアであった」(リデル・ハート)のである。それまで100年以上もつづいていた戦前の軍備計画や兵力態勢、作戦要務令にしみこんでいた伝統的な戦略思考のパラダイムがあとかたもなく粉砕され、さまざまな幻想、神話、虚構の残骸のなかから、真の戦争――戦雲状況が姿をあらわした。
ヨーロッパ諸列強の軍部は、ナポレオン戦争いらい、百年にわたる平和がつづくなかで戦場の勘を失っていた。現場で日々、競争と闘争にあけくれているビジネスマン、外交官、政治家などに比べても、はるかに、常人なみの現実感覚を失っていた。権威と服従の階層秩序の温室内部で保護され、クラウゼヴィッツが、「摩擦」の語でよんだ、いかなる機構にもみられる、予測しがたいミス、失敗、誤算に対処する勘すらも失い、空しいプライドと、固定観念のなかに生きてきた。しかも軍官僚機構のなかから、広汎な知識と洞察力をもつ最高の人材は、あらかた排除された。なぜなら欧州各国の軍部では、「軍人生活四十年にちかい知識、経験ある、プロ以外に口出す資格なし」という原則が確立されるにいたったからである。リデル・ハートが皮肉っているように、これは世界史上、まったく新しい原則にちがいない。なにしろ、この資格要件からすると、アレキサンダー、ハンニバル、シーザーはじめ、クロムウェル、マルボ−ロ*1およびナポレオンにいたるまで、歴史上の偉大な指揮官は、ほとんど無資格者となり、アマチュアとして除外されねばならなかったからである。
われわれが後から、すでに起きた事件を回顧し、歴史を叙述しようとするとき、もっともおちいりやすい錯誤は、「あと知恵」(hindsight)の陥穽である(この点については、拙著前掲『冷戦の起源』参照)。
政治、外交、戦争などの公的舞台におどった行為者(当事者)は、きわめて限られた状況のなかで、不完全な情報、時間のプレッシャー(タイム・リミット)、かれらが生きていた時代の価値観や思想、社会通念、いわゆる空気(山本七平氏の語)などに支配され、その所与の状況にしばられつつ、なんびとも予見できない不確実な未来にむかって対処していかなければならない。経済の領域でも、おなじ指摘がケインズ卿によってなされていることは、だれでも知っている。
これにたいして、後世の歴史家は、現在と常識と知識にもとづいて、現在入手しうる資料により、いわば完全情報にちかいかたちで、過去の状況を再構成できる特権をもっている。
第一次大戦当時の欧州の軍人に対する評価が、昨日引用したBuiterのマクロ経済学者に対する評価とどことなく通底しているのが面白い。