逆方向を向く日本と欧米の経済学者

岩本康志氏がブログで日経ネットPLUS上での土居丈朗氏との「論争」について触れている。内容は、土居氏の4/6の日経の経済教室への寄稿に対し、ニューケインジアンについての認識誤りがあるのではないか、と指摘した、というもの。ただ、旧来のケインズ経済学は時代遅れになっており、ニューケインジアンの成果をもとに経済政策を論じるべきなのに、日本ではその転換が遅れている、という論点では両者の主張は共通している。


一方、Economist's ViewのMark Thomaは、このエントリでほぼ逆のことを述べている。そこで彼は、ニューケインジアンモデルは確かに経済が通常の状態にある時の分析に威力を発揮するが、現在のような時には役に立たない、従って昔のケインズモデルに頼るしかないではないか、と書いている。この彼の考えは、以前このエントリで紹介したものと同じである。
彼はその文章を、以下のように締めくくっている。

It's quite understandable that economists who have been striving to push the profession in a positive, scientific, solidly theoretical and evidence based direction would resist going backward, and resist strongly, but what choice do we have? Until we have a better mousetrap, the simple, old fashioned one will have to suffice.

Economist's View: Macroeconomic Meltdown?

(拙訳)自らの職業を、実証的、科学的、かつ堅固に理論的で事実に基づいたものにしようと努力してきた経済学者が、以前に戻ろうとするのに抵抗、それも強く抵抗するのは理解できる。しかしほかに選択肢がないではないか? もっと良い鼠捕りができない限り、単純で昔ながらのやつで間に合わせねばならないのだ。


こうした認識はThomaだけのものではなく、幾人かが概ね同様のことを述べている。Thomaのこのエントリは、ティム・ハーフォードのFTコラムを紹介したものだが、そこでハーフォードは以下のように書いている。

The worry is not so much that macroeconomists did not forecast the problem – bad forecasts are more a sign of a complex world than intellectual bankruptcy – but that macroeconomics seems unable to provide answers. Sometimes it cannot even ask the right questions.
・・・
While many commentators have reached for Keynes – or some caricature of Keynes – as a solution to this crisis, this is not because he is the fount of all knowledge, but because he was asking good questions about problems that now seem relevant again.

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(拙訳)憂慮すべきは、マクロ経済学者が問題を予測できなかったことではない。精度の悪い予測は、知的破綻というよりは世界の複雑さの証拠なのだ。憂慮すべきは、マクロ経済学が答えを用意できていないように見えることだ。時には、正しい質問をすることすらできていない。
・・・
多くの論者が今回の危機の解決法として、ケインズ、ないしそのカリカチュアに頼った。それは彼がすべての知識の泉だからではなく、今回の危機に関連する問題について良い質問をしていたからだ。


また、Willem Buiterは以下のように書いている(Economist's Viewのこのエントリ経由)。

Most mainstream macroeconomic theoretical innovations since the 1970s (the New Classical rational expectations revolution associated with such names as Robert E. Lucas Jr., Edward Prescott, Thomas Sargent, Robert Barro etc, and the New Keynesian theorizing of Michael Woodford and many others) have turned out to be self-referential, inward-looking distractions at best. Research tended to be motivated by the internal logic, intellectual sunk capital and esthetic puzzles of established research programmes rather than by a powerful desire to understand how the economy works - let alone how the economy works during times of stress and financial instability. So the economics profession was caught unprepared when the crisis struck.

http://blogs.ft.com/maverecon/2009/03/the-unfortunate-uselessness-of-most-state-of-the-art-academic-monetary-economics/

(拙訳*1)多くの1970年代以降の主流は経済学の理論的革新(ロバート・E・ルーカス・ジュニア、エドワード・プレスコットトーマス・サージェントロバート・バロー等々といった名前と結びついている新しい古典派の合理的期待革命と、マイケル・ウッドフォードやその他大勢が推し進めたニューケインジアン理論)は、よく言って自己言及的で内向きの娯楽であることが明らかになった。研究は、確立された研究プログラムの内的論理、知的埋没資本、審美的なパズルにより動機付けられ、経済がどのように動いているか理解したい――ましてや経済に負担がかかり金融が不安定な時期の経済がどのように動いているか理解したい――という強い欲求は二の次にされた。そのため、危機が襲った時に経済学者は無防備だった。

なお、Buiterはこのブログエントリの冒頭で、訓練された経済学者がイングランド銀行の政策委員を占めていたことが、インフレ目標の通常体制から危機対応体制に転換するに当たってかえって足枷になった、とも書いている。この認識は、日経ネットPLUSでの土居氏の以下の言葉と対照的である。

ちなみに、ニューケインジアンの理論に基づく政策形成は、中央銀行で多用されています。しかし、中央銀行に属する研究者は、奥ゆかしさと言うか、政治的に権限騒動に巻き込まれたくないからなのか、財政政策についてあまり多くを語ろうとしない傾向があります。特に、日本銀行はそういう印象があります。


また、ミクロ経済学者のジャスティン・ウルファーズは、マクロ経済学者を以下のように揶揄している。

Today’s macroeconomists write for other macroeconomists. If you aren’t using the right tools, you aren’t part of the club. And so yesterday’s approach becomes tomorrow’s approach.

http://freakonomics.blogs.nytimes.com/2009/03/03/more-navel-gazing-from-academic-economists/

(拙訳)今日のマクロ経済学者は他のマクロ経済学者のために書く。もし正しい道具を使っていなければ、倶楽部の一員とは見なされない。そのため、昨日の方法がそのまま明日の方法になる。

この批判は今回の岩本氏と土居氏の論説にそのまま当てはまる気がしなくもない。

*1:別の訳についてはこちら参照。