則天去私としての合理的期待

11/7エントリでサイモン・レン−ルイスが、昨日紹介したMark Thomaの合理的期待論に賛意を表すると共に、合理的期待を攻撃する人たちに対する苛立ちを露わにしている。

以下はその一節。

Most of the references I make to rational expectations in posts are in the context of the history of macroeconomic thought. I suspect the problem some people have is that they associate rational expectations with the New Classical critique of Keynesian economics, and therefore think rational expectations must be anti-Keynesian. This confuses who fought wars with the weapons they used. I see it quite differently. Before rational expectations, mainstream Keynesian theory that incorporated the Phillips curve depended on a rather fragile story of why economic booms (downturns) could occur, which was that workers kept under (over) estimating inflation. New Keynesian theories based on rational expectations are more compelling, and can include the fact that information is both costly and incomplete.
(拙訳)
ブログポストで私が合理的期待に言及する時は、大抵がマクロ経済思想史の文脈においてであった。ある種の人々の問題は、合理的期待と新しい古典派のケインズ経済学批判とを結び付けてしまう点にあるように思う。合理的期待は反ケインジアンであるに違いない、というわけだ。これは、戦争を戦っている人々と、彼らの使用している武器を混同した議論だ。私の見方はまったく違う。合理的期待の到来前、好況(不況)の起こる原因について主流派ケインズ理論は、労働者がインフレを過小(過大)評価し続けるため、という非常に危うい物語に頼っていた。合理的期待に基づくニューケインジアンの理論はより説得力があり、かつ、情報というのはコストが掛かり不完全なものである、という事実を取り込むことができた。


このエントリをレン−ルイスはThomaの議論の補完と位置づけているが、Thomaと同じく、合理的期待は、代替の選択肢たる適応的期待より優れている、と論じている。期待形成についてもっと深く追究するのであれば、学習理論(cf. George EvansとSeppo Honkapohjaによるサージェントインタビュー)に目を向けることになるが、同理論も、学習によって合理的期待にいかに収束するか、が話の大筋を占めている。しかも、大抵の場合、マクロ経済学者は別のテーマを追究しており、期待の部分の枠組みはなるべく簡単にしたい、と考えている。そうなると合理的期待が現実的な選択肢だ、というのがレン−ルイスの主張である。


この話を読んで何となく連想したのが、夏目漱石の則天去私に関する議論である。夏目漱石が生前唱えていた則天去私という言葉は、漱石が理想とする人生の境地を表わすものとされていたが、江藤淳はそれは単なる小説の方法論に過ぎない、と主張した。同様に、合理的期待を攻撃する人々はそれを反ケインジアンイデオロギーの一部と見做しているが、レン−ルイスに言わせれば、それは単なる経済学の方法論に過ぎない、とのことである。則天去私の議論についてどちらが正しいかは小生には判断がつきかねるが、合理的期待の議論についてはレン−ルイスの主張は尤もなように思われる。