合理的期待はデウス・エクス・マキナか、それともモデル整合性確保の手法か?

クルーグマンとWilliamsonの論争を取り上げたDavid Glasnerのエントリで、Glanerとサムナーが議論になった。ただ、議論のテーマは本論とでも言うべきマクロ経済学の現状についてではなく、合理的期待に関するものであった。


まず、エントリ本文でGlasnerが合理的期待を以下のように腐した。

Under the assumption that all economic agents could correctly forecast all future prices (aka rational expectations), all agents could be viewed as intertemporal optimizers, any observed unemployment reflecting the optimizing choices of individuals to consume leisure or to engage in non-market production.
...
The rational-expectations assumption is simply a deus-ex-machina method by which to solve a simplified model, a method with no real-world counterpart. And the suggestion that rational expectations is no more than the extension, let alone a logical consequence, of the standard rationality assumptions of basic economic theory is transparently bogus.
(拙訳)
すべての経済主体がすべての将来価格を正しく予測できるという仮定(別名、合理的期待)の仮定の下では、すべての主体は異時点間の最適化を行うものと見做すことができ、観測される失業はすべて、余暇を消化するないし非市場的な生産活動に従事するという個人の最適な選択を反映したものとなる。
・・・
合理的期待の仮定は、単純化されたモデルを解くための天下り的な手法に過ぎず、実世界では対応するものは存在しない。合理的期待は基本的な経済理論の合理性に関する標準的な仮定の延長ないし論理的帰結に過ぎない、といった議論は、明白な虚偽である。


これにサムナーがコメント欄で以下のように反論した。

...my real concern is your discussion of rational expectations, and the attempt to somehow link it with GE theory. I can’t take any theory seriously that conflicts with Ratex. Yet I prefer the partial equilibrium approach to macro.. And why even mention “perfect foresight?” No one believes in perfect foresight–yet you group it together with ratex. The term “rational expectations” is very misleading, As McCallum points out it should be called “consistent expectations.” All ratex actually implies is that if your model claims “X is true” then the public in your model should not believe “not X is true.” That and nothing more.
(拙訳)
貴兄の合理的期待に関する議論、およびそれを一般均衡理論に何とか結び付けようとする試みが、私は一番気になった。合理的期待と矛盾する理論を私はまともに取り合う気になれない。ただし、私はマクロ経済への部分均衡アプローチの方がもっと好きだが…。あと、なぜ「完全予測」に言及などしたのだ? 誰も完全予測を信じていないのに、貴兄はそれを合理的期待と一緒くたにした。「合理的期待」という用語は非常に誤解を招くものだ。マッカラムが指摘したように、「整合的期待」と呼ぶべきだ。合理的期待が実際に意味するのは、あるモデルが「Xは真」と主張するならば、そのモデルの一般人は「非Xは真」という信念を抱くべきではない、ということだけだ。それ以上のものではない。


このコメントに対しGlasnerは、合理的期待のもう一つの特徴は皆が同一の期待を持つことではなかったか、とコメントを返し、サムナーのみならずNick Roweにもそれは違う、と反論されている(Roweは受け取る情報が異なれば期待も異なると指摘し、サムナーはそうした期待の同一性は便法であって合理的期待の本質ではない、と反論している)。最後のコメントでGlasnerは、自分かサムナーのどちらかが合理的期待の思想史について論文を書くべきかもね、と述べた上で、サムナーに彼の考えるDSGEの問題点を改めて問い質しており、今後の展開に含みを持たせている。



ちなみに「本論」のクルーグマン=Williamson論争についてのGlasnerとサムナーの見解は、両陣営ともイデオロギーにはまり過ぎ、ということで一致したようである(なお、Glasnerが本文でリンクしたブログエントリでサムナーは、クルーグマンはサムナーに比べればマクロ経済学についてまだ楽観的で、自分に言わせればマクロ経済学は完全な漂流状態にある、と述べている)。