完全な真空としての合理的期待

今年のノーベル賞をとば口に、合理的期待に関してMark ThomaがThe Fiscal Timesに書いている。以下はその概要。

  • 合理的期待革命以前に経済学者が用いていた適応的期待では、期待は過去の情報に基づいてのみ形成されるため、トレンドが変化するという情報が入ってくる場合でも期待が変化しなかった。また、FRBインフレ目標を高めるといった政策変更があっても、労働者の賃金要求はあくまでも過去のインフレ率に基づくことになっていた。
  • 合理的期待はその問題を回避するため、過去の情報だけでなく、起こりうるショックや将来の政策変更、およびそれらの出来事がマクロ経済変数に与える影響、といったすべての情報を取り込んで人々が期待を形成する、とした。
  • 合理的期待が妥当な時もある。例えば親子の遊びで、親が、脇の下、膝、脇の下、膝、…の順で子供をくすぐる場合を考えてみよう。子供が単純な適応的期待に基づいて直近にくすぐられたところを防ごうとするならば、常に一歩遅れを取ってしまい、決してくすぐられるのを防ぐことはできない。しかし子供が、親がどのようなルールに基づいてくすぐっているかを理解したならば、次にくすぐられる箇所を合理的に予測し、防ぐことができる。この時の子供は、経済学者のいわゆる合理的期待を持っている。
  • 現実社会でもこのくすぐりゲームのような条件は満たされているだろうか? 金融政策のように、FRBがその政策ルールを周知するように努め、金融市場参加者が仕事として市場を研究し、かつ巨額のお金がかかっている場合には、近似的にそうした条件が整っているかもしれない。しかし、財政政策については、ルールを理解している者はいないだろう(不況の最中に議会が支出を減らすと予想した者がいただろうか?)。また、普通の家計が政策の経済への影響について十分に理解しているとは思えない。
  • ただ、合理的期待が要求するほど個人が理解するのには経済は複雑過ぎる、という見解については、2つの反論がある:
    1. 子供が飛んでくるボールをキャッチするには、数学的に言えば微分方程式を即座に解くという不可能な作業が要求される。しかし、我々の脳は、完全な数学的な解を求めた「かのように」この問題を解く方法を発展させてきた。我々の脳は、同じく謎めいたテクニックを使って、経済がどのように動くかを完全に理解している「かのように」我々が行動するように仕向けているのではないか。
    2. 個々人が正確にが把握していなくても、各人の誤差をキャンセルアウトすることにより、市場は情報を効率的に集約しているのではないか。
  • Thoma自身はいずれの反論についても懐疑的。彼の考えでは、合理的期待が重要であるのは以下の2つの理由による:
    1. 「完全な場合」におけるベンチマークとしての役割。シラーが主唱するような合理性からの乖離を理解するためには、経済主体が経済のすべてを理解して情報を最適な形で処理した場合に経済がどのように動くか、を理解する必要がある。その点では、物理学において完全な真空を仮定するのに似ており、現実世界の特性を付加することが可能なベースラインを提供する。
    2. 単純なゲームや金融市場のように、合理的期待の前提が近似的に満たされる場合もある。
  • 経済学者は合理的期待が適用できる時とそうでない時について、もっと知る必要がある。そして、それによってモデルを修正するべき。行動経済学はその方向に経済学者を後押しし、答えも幾つか提供してくれたが、合理的期待の前提が正当化されるケースや時期を理解するための道程はまだ遠い。