経済学者と合理性

についてアンドリュー・ゲルマンが疑問を投げ掛けた。彼によれば、経済学者は以下の矛盾した2つの考えを持っているという。

  1. 人々は合理的でインセンティブに反応する。非合理的に見える行動も、経済学者的に考えれば実は完全に合理的であることが分かる。
  2. 人々は非合理的であり、合理的で効率的である方法を虚心坦懐に示してくれる経済学者を必要としている。


この「矛盾」に対しゲルマン自身が出した答えは、以下のような皮肉に満ちたものである。

The key, I believe, is that “rationality” is a good thing. We all like to associate with good things, right? Argument 1 has a populist feel (people are rational!) and argument 2 has an elitist feel (economists are special!). But both are ways of associating oneself with rationality. It’s almost like the important thing is to be in the same room with rationality; it hardly matters whether you yourself are the exemplar of rationality, or whether you’re celebrating the rationality of others.
(拙訳)
私の考えでは、鍵となるのは「合理性」は良いことだ、という点にある。我々は皆良いことに自分を結び付けたがるものではないかい? 議論1は一般受けする話だし(人々は合理的だ!)、議論2はエリート心をくすぐられる(経済学者は特別だ!)。しかしいずれにしても自分を合理性に結び付けることになる。重要なのは、合理性と自分が一体になっていること、ということのようだ。自分が合理性の見本になろうが、他人の合理性を誉めそやそうが、そんなことは二の次、というわけだ。


これに対しModeled BehaviorのAdam Ozimekは、ゲルマンの言うことにも一理ある、としながらも、ブライアン・カプランの「選挙の経済学」を引きながら、人々は非合理的であることが損にならないならば自分の趣味嗜好を優先して非合理的になり得るし、非合理的であることが損になるならば合理的になる、という回答を示している。その上で彼は、経済学者は経済問題に関して合理的に考えるのが仕事なので、そのテーマについては合理的になるインセンティブがある、と指摘する。ただしそこで問題になるのが、経済学帝国主義によって、インセンティブの絡むあらゆる問題に経済学者が専門家として首を突っ込む点にある、と彼は言う。そのため他の社会学者や人類学者と意見が衝突することもあるが、そうした重複分野では本来は関係者は皆合理的になるはずなので、どうしてそうした衝突が生じるかはこの理論では説明できない、とOzimekは正直に認めている。