ブルシットとしての経済学

匿名ブロガーknznが約3年ぶりにエントリを上げ、早速Economist's Viewが取り上げている。そこでknznは、28日エントリで紹介したStephen Williamsonのエントリでの論争について以下のような感想を漏らしている。

Here’s my take: to begin with, economics is basically bulls**t. I mean, it’s necessary bulls**t, sometimes even useful bulls**t, but I’m extremely skeptical of people who think economics is a science or that it could be a science. We have to make policy decisions (and investment decisions and personal consumption decisions etc.), and we have to have some basis for making them. We could just use intuition, and we often do, but it’s helpful to use logical thought and empirical data also, and systematic study using fields like economics can help us to clarify our intuition, our logical arguments, and our interpretation of the empirical data. The same way that bulls**t discussions that don’t make any pretense at being science can help.
(拙訳)
僕の言い分はこうだ。まず、基本的に経済学は戯れ言だ。とは言うものの、それは必要な戯れ言であり、時には役に立つ戯れ言でもある。しかしながら、経済学は科学だとか、経済学は科学になり得る、と言う人々の言については僕は非常に懐疑的だ。我々は政策を決定しなければならないし(あるいは投資の決定や消費の決定なども行わねばならない)、そのためには何らかの裏付けが必要だ。その際、単に直観に頼ることもできるし、実際にそうすることも良くあるが、論理的思考と実証データを用いることも役に立つ。そして、経済学のような分野における系統的な研究は、我々の直観や論理展開や実証データの解釈を明確にするのに役に立つのだ。それは、科学のふりをしない戯れ言の議論が役に立つのと同様だ。


この後でknznは、“確かに今のミクロ的基礎は駄目だが、きちんとしたミクロ的基礎を構築すれば戯れ言では終わらないマクロ経済学を得られるのではないか”、というノアピニオン氏の主張を取り上げ、それにも懐疑的な姿勢を示している。というのは、ミクロ経済学でもルーカス批判のような問題は起こるからだ、と彼は言う。具体的には、人間の行動に関するある研究結果が周知の話となれば、その研究結果を前提として人々は行動するようになるという問題や、時代によって人々の行動様式が移り変わるという問題がある、と彼は指摘する。従って、正しいミクロ的基礎など永遠に手に入らない、というわけだ。


またknznは、DSGEやWilliamsonらのニューマネタリズムのような厳密なモデル化も有用かもしれないが、それでも戯れ言であることには変わりなく、戯れ言を厳密化することと有用性の間には単調な関係は存在しない、と指摘する。だから厳密な戯れ言にすべてを賭けるのではなく、伝統的ケインズ経済学のような厳密でない戯れ言にも片足を残しておくべきなのだ、と彼は主張する。そして、彼自身は厳密ではない戯れ言の方を好む、というのは、すべての経済学モデルは非現実的な前提を有しているが、複雑なモデルではその非現実性を直観で是正することが難しくなるからだ、と自分の立場を主張してエントリを締めくくっている*1


これに対しEconomist's ViewのMark Thomaは、伝統的ケインジアンとニューケインジアン双方のいいとこ取りをするのは良いことだが、その際、何がそれぞれの「いいとこ」なのかを把握するところにアート(サイエンスではなく!)を要する、とコメントすると同時に、ニューケインジアンにあって伝統的ケインジアンにない特長として予想の取り込みを強調している*2



なお、こうした見解と、元エントリのコメント欄でWilliamsonが示した以下の見解を対比させて見るのも面白いだろう。

Macroeconomic problems are not like problems in physics at all. You might think that you can observe how an economic system behaves, uncover the statistical regularities, and then make accurate predictions about the effects of changes in economic policy. Not so. The problem (different from physics) is that the behavior of the system is determined by the behavior of the purposeful individual human beings in the economic system. When economic policy changes, the behavior of the individual human beings changes in ways that you can predict only if you model their behavior at the micro level. We use the tools of science in economics - mathematics, statistics - but we do it in a very different way, and for good reasons.
(拙訳)
マクロ経済学の問題は物理学の問題とはまったく違う。経済システムの挙動を観察し、統計的規則性を発見し、経済政策の変化の影響を正確に予測できる、と考えているのかもしれないが、それは違うのだ。(物理学とは違って)問題は、経済システム内にいる目的を持った個々の人間の行動によってシステムの挙動が決まる、ということにある*3。経済政策が変化した時、個々人の行動は変化するが、その変化を予測することは、彼らの行動をミクロレベルでモデル化して初めて可能になる。我々は経済学において数学や統計学などの科学のツールを用いるが、使い方はまったく違っており、それにはきちんとした理由がある*4

*1:エントリの前半では、オールドケインジアンだからこそ自分はハンドルネームを「dsge」ではなく「knzn」にしたのだ、とも書いている。これを受けてThomaは紹介エントリのタイトルを「knzn is a Keynesian」としているが、そのエントリのコメント欄でのanneとPaineのやり取りを見るまで、小生は迂闊にもその意味に気付かなかった:
 anne: Good grief, I never realized what Knzn represented.
 Paine (anne への返信): Which is ?
 anne (Paine への返信): [Keynesian = Knzn]

*2:ここで紹介したように、少し前にThomaはロバート・ワルドマンへの反論でもそのことを強調している。

*3:cf. ここの注で引用した「われわれ経済学の粒子は賢く、あなたがた物理学の粒子はおばかさん」というブライアン・アーサーの言葉。

*4:cf. ここで引用した「相対性理論のように観測より理論の割合が大きい分野のことはよくわからないが、一般的な傾向は、まず計算して、つぎにそれを裏付ける実験データを見つけるということ。だから、厳密さが欠如していることはさほど重大ではない。誤りはいずれ発見されるだろうから。で、われわれ経済学のほうには、そういう質のデータがないんだ。物理学者がやるような方法でデータを生み出すことはできないんだ。われわれは小さな基盤の上でかなりのことをやらねばならない。だから、ステップ一つ一つが正しいかどうかを確かめねばならない。」というアローの言葉。