高頻度ナラティブ手法

という手法(原語は「high frequency narrative approach」)で財政赤字のインフレへの影響を計測した論文をタイラー・コーエンが紹介している。論文のタイトルは「Do Deficits Cause Inflation? A High Frequency Narrative Approach」で、著者は Jonathon Hazell(LSE)、Stepan Hobler(同)。
以下は本文の導入部に記されたその計測手順の概要。

  • 第一段階のナラティブ過程においては、財政赤字に関するニュースをもたらしたイベントを識別。ここではイベントとして2021年初めのジョージア州上院決戦投票*1を用いた。
    • 2020年11月に民主党は大統領選に勝利し、上院で48議席を獲得した。しかしジョージア州の2議席は2021年1月5日の決選投票で決まることになった。もし民主党が両議席を獲得すれば、財政刺激策を実行できる多数派となる。
      • 上院の手続きでは、財政法案のみ単純な多数派で通すことができる。財政以外の法案は60票の大多数が必要で、これは決選投票の結果如何にかかわらず獲得できないことが判明していた。
    • 1月7日に、民主党が両議席を獲得したことが明らかとなった。その後、2021年3月に民主党は、1.9兆ドル(GDPの8.8%)の財政赤字による財政刺激策を通した。これは、2020年12月に通過した9000億ドル(GDPの4.2%)への追加となり、2020年末から2021年初めに掛けて合計でGDPの13%の刺激策が成立したことになる。それから間もなくインフレが上昇し始めた。
    • 次に、民主党勝利に起因する財政赤字に関するニュースのサイズを測定した。
      • 問題は、共和党勝利の想定も含め、選挙前にどれだけの財政赤字支出が予想されていたか、を決めること。ここでは20の投資銀行やマクロ経済研究所のレポートを収集して構築したデータセットを用いた。
        • 投資銀行は市場を動かすイベントの前後にタイムススタンプ付きのレポートを広く配布しており、その中で様々なシナリオの定量的情報を記述している。
      • それらのレポートを用いてジョージア州の決選投票の財政赤字のニュースを計測したところ、平均的な投資銀行は50%の確率で民主党が両議席を獲得すると予想しており、勝利の暁には9000億ドルの財政刺激策を支出すると予想していた。共和党が1議席でも獲得していたら、財政刺激策は無いと予想されていた。従って民主党の勝利は4500億ドル(GDPの2.1%)の財政赤字予想のショックだったことになる。うち7割は「stimulus checks」のような移転支出になると予想されていた。
  • 第二段階の高頻度過程においては、スワップ取引のインフレ予想を用いた(Cieslak & Pflueger 2023*2)。
    • その際、2つの識別手法を用いた。第一の手法は決選投票前後の期間におけるインフレスワップを調べた単一のイベントスタディである。
      • その期間内に原油価格ショックなどインフレに影響する他のショックに関するニュースは起きなければ、除外変数バイアスに影響されない。
        • 問題は1月6日の議会乱入事件だが、以下の4つの理由によって問題無いと考えられる。
          1. 乱入を除いた期間でも同様の結果が得られた。
          2. ナラティブの証拠は、乱入事件が資産価格の主要な決定要因では無かったことを示している。
          3. 実体経済の強い成長予想は、乱入事件が大きな影響を与えたことと矛盾する。
          4. 米政治リスクの代理変数であるクレジット・デフォルト・スワップは安定していた。
      • 民主党の勝利は、予想物価が2年で0.38%上昇することにつながる(標準誤差は0.05%)、と推計された。ショックは永続的な効果があると予想され、10年で累積して0.77%の予想物価の上昇につながる(標準誤差は0.18%)、と推計された。
      • 配当先物は力強い実質GDP成長率予想を示し(Gormsen & Koijen 2020*3)、投資銀行は成長予想を大きく上方修正したため、ショックは需要を増加させたと考えられた。
    • イベントスタディには単一の強力な観測に頼る、という欠点があるため、第二の手法として、操作変数法を用いた。
      • 11月の大統領選挙と1月の決選投票の間に民主党勝利の確率が大きく変化し、市場はそれに注目した。ということで、賭け市場における民主党勝利確率の日次確率を財政赤字ニュースの操作変数として用いた。この手法でも第一の手法と同様の推計結果が得られたが、ただし4割ほど大きかった。
    • 高頻度手法では、スワップ取引から得られるインフレ予想が真のインフレについての偏りが無い予想であることを仮定している。
      • これは、過去の研究と同様(例:Nakamura & Steinsson 2018*4
      • 実際には、この期間のインフレ予想は、やや過小反応しつつも実際のインフレと共変動した。これは過去データにおける予想も同様(Coibion & Gorodnichenko 2015*5)。従って、スワップから得られた高頻度の反応は、実際のインフレ変化の保守的な推計になっている。
  • 最後に、ナラティブと高頻度の結果を組み合わせて、2021年の財政赤字がインフレに与えた因果効果を計算した。
    • 推計結果は、高頻度の反応をショックのナラティブの計測値で割った「インフレ乗数」に集約される。インフレ乗数は、GDPの1%の財政赤字ショックに対して、2年で0.18%の物価水準の上昇(10年では0.37%)、となった*6
    • 財政刺激策の効果は、インフレ乗数と、2021年のGDPの13%の財政赤字との積になる。即ち、2021-22年に2.3%の物価上昇をもたらしたことになる。これは2021-22年の総合インフレの3割程度に相当する*7
    • 結論として、2021年の財政赤字はコロナ禍後のインフレの重要な要因ではあったが、唯一の要因ではなかった。
      • この推計では2020年4月のCARES法(コロナウイルス支援・救済・経済安全保障法)を考慮していない。同法案は2.2兆ドル(GDPの10%)だった。もし同じインフレ乗数を適用できるとしたら、CARES法は物価を2年間にさらに1.8%押し上げたことになる。
      • 今回の発見はBarro & Bianchi (2023) *8 のような他の研究と整合的である。ただ、原油価格のような他のインフレショックもおそらく重要であっただろうことを示唆している(Gagliardone & Gertler 2023*9)。

論文ではこのほか、標準的なHANKモデルでインフレ乗数を定量的に再現できるかどうかを調べ、再現できるという結果を得ている。

*1:cf. 米ジョージア州上院決選投票の注目ポイント | 三井住友DSアセットマネジメント

*2:Inflation and Asset Returns | Annual Reviews

*3:Coronavirus: Impact on Stock Prices and Growth Expectations | The Review of Asset Pricing Studies | Oxford Academic

*4:High-Frequency Identification of Monetary Non-Neutrality: The Information Effect* | The Quarterly Journal of Economics | Oxford Academicコピー

*5:Information Rigidity and the Expectations Formation Process: A Simple Framework and New Facts - American Economic Association

*6:0.38/2.1=0.18、0.77/2.1=0.37。

*7:コーエンのエントリのコメント欄で、この3割という数字の根拠が良く分からん、とスコット・サムナーがコメントしたのに対し、論文の著者の一人であるJonathon Hazellが降臨し、2.3%は2021-22年の超過インフレの3割に相当する、と返している。また併せて、この件では金融政策が鍵になっており、この期間の金融政策が緩和的なままだったことが財政赤字に対するインフレの反応が高くなった一つの要因だった、とも述べている(この追記は市場マネタリストのサムナーに配慮したものかもしれない。コメントの冒頭では、昔から大ファンで、10代終わりに経済学の道に進んだきっかけになった、とも書いている)。

*8:cf. 2020-2022年のOECD諸国におけるインフレへの財政の影響 - himaginary’s diary

*9:cf. 原油価格、金融政策、およびインフレ高騰 - himaginary’s diary