中央銀行にとっては少々益益弁ず

3/5エントリに、そこで取り上げた白川論文が掲載されたIMF季刊誌の同じ号の表題のラジャン論文(原題は「For Central Banks, Less Is More」)をどう思うか、というコメントを頂いた。

同論文の主旨を乱暴にまとめると、今現在問題になっている高インフレレジームと、これまで問題になってきた(そして今後また舞い戻る可能性のある*1)低インフレレジームでは、中央銀行に求められるコミットメントが違うが、コミットメントにおける時間的整合性ないし時間軸効果*2の性格上、どちらかしか中央銀行しか選べないので、より弊害の少ない高インフレレジームのコミットメントを選ぶべし、ということになる。

これに読んで小生の思いついたことを箇条書きにまとめると以下のようになる。

  • ラジャンは、金融緩和策が高インフレ期において及ぼす弊害と低インフレ期においてもたらす利得を比較して、前者の害の方が大きいとしている。だが、この比較衡量は、インフレが大きく高進した欧米と、取りあえずそれよりはインフレが緩やかにとどまっており、かつ、これまでのデフレの弊害が欧米より深刻だった日本では話が違ってくると思われる。
    • 皮肉なことに、その点については、白川論文の最後で強調された金融政策の枠組みは国ごとの事情の違いを良く勘案すべし、という主張が良くあてはまる気がする*3
  • ラジャンは、クルーグマン流の「合理的に無責任」になる言わば何でもありの金融緩和策を、否定すべきコミットメントの例として槍玉に挙げている。だが、これも皮肉なことに、その否定の論理という最大の違いを除けば、ラジャンの主張とクルーグマンの主張には共通していると思われる部分も意外にある。
    • 例えばラジャンは日本のディスインフレないしデフレの最大の原因を人口減に求めているが、これはクルーグマンが当初から主張していることである*4。ただ、結果としてデフレスパイラルは生じていないので、中銀が大騒ぎすることのほどではない、というのがラジャンの立場で、その点が流動性の罠を問題視したクルーグマンとは違う。
    • しかしそのクルーグマンも、その後の日本や欧米の推移を見て、「金融政策は原理的にはゼロ金利下限問題への解決策を提供できるものの、現実的な政策としては最終的には財政政策しかない」と述べ*5、問題解決のボールを財政に投げ返している。ラジャンも今回の論文で、金融政策は主目的の高インフレ退治と副次的な目的の金融の安定性の維持に集中すべきで、経済成長の責任については、そもそもの責任者である民間部門と政府に投げ返すべし、としている。
    • このように、デフレの根本的な原因に関する考察と、その解決策を最終的に金融政策以外に求めるようになった点は、両者の主張に共通している。
  • 高インフレと低インフレでは中銀のコミットメントが違ってくる、という問題については、小生も10年ほど前に考察したことがある。その時には、低インフレレジームでは財金一体になることを検討しても良いのではないか、と書いたが、さすがにこれは、fiscal dominanceやfinancial dominanceに大いなる警戒感を示しているラジャン(や同じ号に書いているブルナーメイヤー)からは大反対を受けそうである。

*1:ラジャンは言及していないが、この点は例えばブランシャールが最近主張している

*2:ただしラジャンはこの用語を用いていない。

*3:その文脈で白川氏が主張する、終身雇用制が日本のデフレの進行を抑えた要因、というのはやや眉唾だとは思うが。

*4:例えばここここで小生が引いた「After all, one core problem the Japanese have is a prospective shortage of Japanese.」という1998年のコメント(現在残っているソースはこちら)。

*5:しかもここで紹介したように、負の自然利子率が新常態ならば中銀の牽引力の獲得は一層難しくなる、と指摘している。