「すべてのモデルは間違い」の語源

David Glasnerが、ローマーのマクロ経済学批判をとば口に、以下の論陣を張っている

  • こうした批判に対する現代マクロ経済学側からのお決まりの反論は、すべてのモデルは間違っている、というものである。その中でも自分たちのモデルはミクロ的基礎付けがなされているのでルーカス批判を免れており、そうでない他のモデルはそもそも検討に値しない、と彼らは言う。しかし、ミクロ的基礎付けがなされたモデルも、均衡の下でのみ有効であり、ある均衡状態から別の均衡状態への経済の調整を予測することはできない、という点でルーカス批判を免れてはいない。
  • 理論が重要なほど仮定は非現実的になる、というフリードマン(1953)が引用した手法上の主張も反論に使われる。しかし、フリードマンは「非現実的」という言葉の代わりに「単純」という言葉を使うべきであった。単純化が非現実的となる場合もあるが、必ずそうなるとは限らない。


その上で、「すべてのモデルは間違っている」の語源を探ったところ、ボックスの論文であった*1、として該当部分を引用している。

Since all models are wrong the scientist cannot obtain a “correct” one by excessive elaboration. On the contrary following William of Occam he should seek an economical description of natural phenomena. Just as the ability to devise simple but evocative models is the signature of the great scientist so overelaboration and overparameterization is often the mark of mediocrity.
Since all models are wrong the scientist must be alert to what is importantly wrong. It is inappropriate to be concerned about mice when there are tigers abroad. Pure mathematics is concerned with propositions like “given that A is true, does B necessarily follow?” Since the statement is a conditional one, it has nothing whatsoever to do with the truth of A nor of the consequences B in relation to real life. The pure mathematician, acting in that capacity, need not, and perhaps should not, have any contact with practical matters at all.
In applying mathematics to subjects such as physics or statistics we make tentative assumptions about the real world which we know are false but which we believe may be useful nonetheless. The physicist knows that particles have mass and yet certain results, approximating what really happens, may be derived from the assumption that they do not. Equally, the statistician knows, for example, that in nature there never was a normal distribution, there never was a straight line, yet with normal and linear assumptions, known to be false, he can often derive results which match, to a useful approximation, those found in the real world. It follows that, although rigorous derivation of logical consequences is of great importance to statistics, such derivations are necessarily encapsulated in the knowledge that premise, and hence consequence, do not describe natural truth.
It follows that we cannot know that any statistical technique we develop is useful unless we use it. Major advances in science and in the science of statistics in particular, usually occur, therefore, as the result of the theory-practice iteration.
(拙訳)
すべてのモデルは間違っているため、科学者は過度の精緻化によって「正しい」モデルを得ることはできない。逆に、オッカムのウィリアムに従って自然現象の節約的な描写を目指すべきである。単純だが示唆に富むモデルを構築する能力が偉大な科学者の証であるように、過度の精緻化と過度のパラメータ化は凡庸の印である場合が多い。
すべてのモデルは間違っているため、科学者はどの間違いが重要であるかに気を付ける必要がある。虎がいるときに鼠を気にするのは適切とは言えない。純粋数学は「Aが真だとして、Bは必然的に起きるだろうか?」といった命題を扱う。この記述は条件付き命題なので、Aが真かどうか、および、結果として生じるBと実生活との関連については何も述べていない。純粋数学者は、その範囲内で行動する限り、実際的な事柄には一切触れる必要が無く、また触れるべきではない。
物理学や統計学といった分野に数学を応用する際は、現実世界について、真実ではないことは分かっているがそれでも有用と思われる暫定的な仮定を置くことになる。物理学者は素粒子が質量を持つことを知っているが、質量を持たないと仮定して導かれた結果で現実に起きることを近似することがある。同様に統計学者は、例えば正規分布も直線も自然には存在しないと知っているが、真ではないと分かっている正規性や線形性の仮定から、現実世界で見い出されることに相当する結果を有用な近似として導き出すことが多い。ということは、論理的帰結の厳密な導出は統計学にとって非常に重要であるものの、そうした導出は、仮定が自然の真実を描写しておらず、従って結果も自然の真実を描写していないような知識に必然的にくるまれているものなのである。
よって、我々が開発するいかなる統計的技法も、使用するまで有用かどうか分からない、ということになる。このため、科学、とりわけ統計学における主要な進歩は、理論と実際の行き来の結果として生じるのが普通なのである。

Glasnerは、現代マクロ経済学者は公理的推論や公式の証明や高度な数学技法をこれ見よがしに使用し、それを基に自らを科学者として常に寿いでいるが、ボックスの講義を読んでその内容をきちんと受け止めれば少しは大人しくなるはずだ、と皮肉ってエントリを結んでいる。