と題したエントリ(原題は「How an Economist Helped Inspire the Movie Dr. Strangelove」)で、マンキューがハーバードケネディスクールのニュースサイトの1/28付け記事に、「それはもちろんトーマス・シェリングだ(Thomas Schelling, of course.)」というコメントを添えてリンクしている。
以下は記事からの引用。
After being asked by a magazine editor to survey a series of fictional accounts of nuclear war, Schelling became very interested in the book “Red Alert” by British author Peter George. He recalled the story’s plot as "the first plausible, detailed examination of how a war might actually get started.” His article caught the eye of Stanley Kubrick, who quickly secured the rights to “Red Alert.”
Kubrick travelled to Cambridge to meet with Schelling and George. The three spent an afternoon wrestling with a considerable plot hole: when “Red Alert” was written in 1958, inter-continental ballistic missiles were not much of a consideration in a potential U.S.-Soviet showdown. But by 1962, ICBMs had made much of the book’s plot points impossible. The speed at which a missile strike could occur would offer no time for the plot to unfold. "We had a hard time getting a war started,” said Schelling.
Schelling’s involvement with the production ended there.
(拙訳)
雑誌の編集者に、幾つかの小説での核戦争が始まる経緯を調べてもらうように頼まれたシェリングは、英国の作家ピーター・ジョージの小説「赤い警報」に非常に興味を惹かれた。彼は、「戦争が実際に開始されるかもしれない経緯を提示した初めて説得力のある綿密な調査」としてその小説のプロットを記憶している。彼の記事はスタンリー・キューブリックの目に留まり、キューブリックはすぐに「赤い警報」の権利を押さえた。
キューブリックはケンブリッジを訪れ、シェリングとジョージに会った。3人はある日の午後を費やしてプロットの大きな穴に取り組んだ。1958年に「赤い警報」が書かれた時には、大陸間弾道弾は起こり得る米ソ戦争の中で重要な役割を果たすとはあまり考えられていなかった。しかし1962年までにICBMは、小説のプロットの要点の多くを実現不可能なものとしていた。ミサイル攻撃が開始されるまでのスピードは、小説のプロットが展開する時間の猶予を与えないであろう。「我々は戦争を始めさせるのに苦労した」とシェリングは言う。
シェリングの映画製作との関わりはそこまでだった。
ちなみに、記事でリンクしているインタビュー映像の中でシェリングは、「あの映画が製作されるきっかけを作ったことは返す返すも私にとって喜ばしいことだった(I was always happy that I had stimulated that movie.)」と述べている。
なお、ぐぐってみて気が付いたが、このエピソードは8年前に田中秀臣氏がMarginal Revolution経由で紹介している。そのMarginal Revolutionエントリの元ネタ(ボルティモアサン紙記事)からの引用によると、プロットの穴を塞ぐ最終的な解決策は空軍の誰かを発狂させることで、それによりブラックコメディという方向に話が進んだという。シェリング自身は真面目な映画にしてほしかったが、映画の出来栄えには満足したとの由。