をインドのLivemint紙で編集者のPramit Bhattacharyaが挙げている(H/T Mostly Economics)。
- アリス・イン・ワンダーランド的な仮定
- 1989年以降のネオリベ的なコンセンサスは、1970〜80年代の合理的期待革命に基づいていた。
- そうした考え方はシラーらによって批判されていたが、2008年の破綻まで大部分のマクロ経済学者はそれらの批判を無視していた。
- 危機後の政策対応は昔ながらのケインズ的な需要管理政策(財政刺激策)に立ち戻ったが、それは、より優れて厳密な合理的期待経済モデルが30年前に取って代わったはずのものだった。
- 最先端の合理的期待モデルが失敗したのは、企業間の区別をすべて無くし、個人や商品をすべて均一化するという極めて問題のある仮定のせいだった。Jonathan Schleferは2012年の著書「The Assumptions Economists Make」(cf. ここ)で、「マクロモデルですべての個人と商品を均一化してしまえば、安定性を純粋な前提として定義的な式に取り込むのは数学的には容易なことです。しかしそれは純粋な前提に過ぎません。望むならば、不安定性をモデルの定義的な式に取り込むことも同じくらい容易にできるのです」と述べた。
- 合理的期待革命時には、デブリュー率いるミクロ経済学者が一般均衡モデルの安定性に深刻な問題を発見していた。しかし合理的期待論者たちは単にそれを無視し、自分たちのモデルは「ミクロ的基礎付け」の上に構築されている、と主張した。彼らが実際に行ったのは、仮定を弄って問題を回避することだった。
- Schleferはそうした仮定を、別の経済学者の用語を拝借して「アリス・イン・ワンダーランド的な仮定」と呼び、そのように深刻な理論的制約を抱えたモデルが実際には上手くいかないことに何の不思議があろうか、と述べた。
- 問題は単純な仮定を立てること自体にはなく――それはすべての理論やモデルで必須のことである、とSchleferも認めている――、既に良く識別されている複雑性を回避するためだけに重要な仮定を立てて、洗練された理論を構築しようとすることにある。その時、そうした理論は、洗練されたファンタジーに終わることになる。
- モデルの誤用
- 知的な虜
- 科学という妄執
- 「教科書」と経済学入門の神話の永続化
- 標準化の追求によって経済学者の訓練課程も驚くほど画一化された。その中心にあったのが、「経済学入門」を教えるのに使われる教科書だったが、その内容は経済学研究の最先端を取り入れた結果、現実から乖離していた。
- 経済学者になった学生は経済学の別の側面に触れる機会があったが、経営者や政策担当者になった学生は、入門課程で教えられた経済に関するナイーブな見方に終始することが多い。
- また、教科書モデルの限界をわきまえているはずの経済学者、それも有名な経済学者でさえ、論説を書いたり政策処方を策定したりする際にはそうしたモデルに立ち戻ってしまう。これは経済学入門の手法が実際の経済を理解する適切で強力なツールだという危険な考え方を永続化してしまう。
- 社会の無視
- 経済学入門や主流派経済学の多くを特に制約的なものにしているのは、経済的帰結の決定の上で文化や社会規範が果たす役割を無視していること。
- アダム・スミスやカール・マルクスといった古典派経済学者はそれを重視していた。現代でもそれを強調している社会科学者はおり、例えばMark Granovetterは1985年の論文で、経済的相互作用における信用は、市場が決定した価格への絶対的信頼だけではなく、取引相手に関する特定の知識に基づいている、ということを説得力を持つ形で明らかにした。しかし主流派経済学の考えや講義にそうした研究が浸透するのは難しい。
- Marion Fourcade、Etienne Ollion、Yann Algan の2015年の研究は、経済学者たちは社会科学者の中で最も閉鎖的で、他の分野の研究を引用しない傾向が最も強いことを示した。
- 歴史の無視
- 経済学が他の社会科学の交流が乏しかったとしても、経済史を研究することでそれを補うことはできた。ソローは1985年の論文で、経済史の研究は、異なる社会環境ならびにその環境と経済的行動との相互作用についての感覚を提供する、と指摘し、次のように述べた:「モデルの適切な選択が制度的文脈に依存しているならば――それはそうあるべきなのだが――、経済史は理論家が利用できる観測範囲を拡大するという素晴らしい機能を果たす。」
- 経済史はこれまで片隅に追いやられ、多くの院生にとって馴染みの無い分野となっていたが、危機後には見直しの動きも出ているようである。