というEconospeakエントリ(原題は「Economics: Part of the Rot, Part of the Treatment, or Some of Each?」)でピーター・ドーマンが、経済学は金融危機にどの程度責任があるのか、という議論を取り上げている。そこで彼は、経済学を槍玉に挙げることは銀行という真犯人から目を逸らすことになる、というサイモン・レン−ルイスやクリス・ディロー(cf. ここ)の議論に反駁したUnlearning Economicsと、それに対するレンールイスの反論を紹介している。以下はレンールイスの反論のドーマンによるまとめ。
Simon Wren-Lewis responded by arguing that UE has it exactly backwards. Restricting himself to UE’s critique of macroeconomics, SWL says, yes, reactionary politicians have invoked “economics” to support austerity, but “real” economists for the most part have not gone along. True, there were a few, like Reinhart and Rogoff and those in the employ of the British financial sector (“City economists”) who took a public stand against sensible Keynesian policies in the wake of the financial crisis, but they were a minority, and, in any case, what would you want to do about them? Economists, like professionals in any field, will disagree sometimes, and having a centralized agency to enforce a false consensus would ultimately work against progressives and dissenters, not for them. Let’s put the blame where it really belongs, says SWL—on the politicians and pundits who have brushed aside decades of theoretical and empirical work to promulgate a reactionary, fact-free discourse on economic policy.
(拙訳)
サイモン・レンールイスは、Unlearning Economicsは話を完全に逆に捉えている、と反論した。Unlearning Economicsのマクロ経済学批判に的を絞り、レンールイスは、確かに反動的な政治家は「経済学」を持ち出して緊縮策を支持したが、「本当の」経済学者は大体においてそれに賛成しなかった。確かにラインハート=ロゴフや、英国の金融部門に職を得ている人(「シティ・エコノミスト」)のように、金融危機後の分別あるケインジアン政策に公けに反対の立場を取った者も幾人かはいたが、彼らは少数派であったし、そもそもそうした人々をどうしろというのだ? 経済学者は、他のすべての専門職と同様、意見が一致しないことが往々にしてあり、偽りのコンセンサスを強制するような中央機関を持つことは、結局はそうした人々よりも進歩派や非主流派にとってマイナスとなるだろう。責任の所在は実際に責任ある者――数十年に亘る理論や実証研究を払いのけ、経済政策に反動的で事実に基づかない話を押し付けてきた政治家や有識者――に帰すべきだ、とレンールイスは言う。
次いでドーマンは、この議論に対するデロングの見解を紹介している。デロングは概ねレンールイスに同意し、Unlearning Economicsの言っていることは間違いだらけ、としつつも、ラインハート=ロゴフ問題についてはUnlearning Economicsが正しく、レンールイスはその問題をきちんと取り上げていない、としている。ドーマンは、デロングは学界による何らかの品質管理――ただしUnlearning Economicsが要求していると思しきほどには制度化しない形で――を考えているのではないか、と解釈している。
その上でドーマンは自分の見解を付け加えているが、そこで彼は、何でも最大化問題に帰する経済学的思考法を槍玉に挙げている。
The false certainty about core theory has in turn given rise to a pernicious tendency in econometrics to calibrate rather than actually test models. This is true almost by definition in most structural econometrics: a set of equations is derived from theory, and their parameters are estimated from an available dataset. This procedure makes sense if you know the structure is right, since you aren’t actually testing it. Incredibly, the bar is lowered still further, since many theories remain in circulation even when their structural estimations fail out of sample or are inconsistent with one another. There doesn’t exist in mainstream economics a culture of radical self-testing, since there is no professional cost to having one’s results disconfirmed by a subsequent study. Hey, we’re all just playing with our models, which is OK since they follow the proper rules, with maximizing agents and everything. The world of DSGE modeling is rife with this, but you’ll see the same thing in the micro world; it just hasn’t been called out as vociferously up to now.
(拙訳)
中核理論に対する誤った確信は、計量経済学において、実際にモデルを検証するよりはカリブレートするという有害な傾向をもたらした*1。このことは、定義により、ほとんどすべての構造的計量経済学に当てはまる。そこでは理論から一連の方程式が導出され、そのパラメータは利用可能なデータセットから推計される。この手順は、構造が正しいことが分かっている場合は意味を持つ。というのは、その手順では構造は実際には検定されていないからである。信じられないことに、構造推定がサンプル外で成立しない理論や、お互いに矛盾するような理論でさえ未だ通用していることから、ハードルはさらに下げられた。自分の研究が後続の研究によって否認されたとしても専門的に何らかの対価を払うことはないため、主流派経済学には徹底した自己検証の文化は存在しない。まあ、僕らは皆、単に自分たちのモデルを弄っているに過ぎず、それらのモデルは、主体などあらゆることを最大化する、という然るべき規則に従っているのだから何ら問題はない、というわけだ。DSGEモデル構築の世界はこうした事例で溢れているが、ミクロの世界でも同じことが見られる。単にこれまでのところそれほど声高にあげつらわれてはいない、ということに過ぎない。
ドーマンは、こうした思考法の淵源は経済学入門における洗脳にあるのではないか、と推測している。ドーマンによれば、そのメカニズムは以下の3点だという。
- 選択
- 経済学入門で教授が合理的なんたらや最適かんたらを単純な幾何学を使って延々と解説した時に、その美に惹かれる少数の学生が存在し、その中に経済学者の道に進む者がいる。
- 経済学的話法の力
- 経済学入門で教え込まれた枠組みや言語は、経済学者が専門に深く分け入った後になっても、問題を考える際に使う。経済学者が参加する実務的な場面の多くでは、経済学以外の人文学(経営学、政治理論、心理学、文化論、歴史論)の話法も使われるが、彼らはもはやそれらの話法を受け付けなくなっている。そのことが、多くの人が閉鎖的と指摘する経済学的手法につながっている。
- デフォルトの前提の役割
- 経済学の各分野の専門を深めると、経済学入門で習った内容から乖離する場面に次から次へと遭遇するが、経済学者は、そうした乖離は例外的なものと考える。そして、他の専門分野を通じた経済学全体としては、経済学入門で学んだ内容――市場は概ね機能し、経済主体は概ね合理的で、経済政策は大体において経済が上手く機能するための周縁的な調整である――が依然として基本であると考える。
ドーマンは、表題の問い掛けへの自分なりの回答として、「大体腐っているが、治療法も幾ばくか存在し、それはもっと多くなり得る(mostly rot, some treatment, could be more)」と述べている。