第二ファウンデーション

昨日その一端を紹介したミクロ的基礎付けを巡る議論*1に絡んで、David Glasnerが興味深いエピソードを紹介しているEconomist's View経由;UCバークレーのデロングも論評抜きで取り上げている)。

  • ルキアンは、広告や在庫や企業や契約や失業といった日常的な経済事象は、一般均衡理論が前提とする完全情報と不確実性の存在しない世界では存在しない、ということを見抜いていた(その前にコースハイエクも既に同様の考察を行っていたが)。
  • GlasnerがUCLAに在籍していた時、マクロ経済学にミクロ的基礎付けを与えることは、ケインズ非自発的失業をより良く理解するための知的挑戦として受け止められており、その不在を証明するための手段としては考えられていなかった。ミクロ的基礎付けに基づいてマクロ経済学を再構成する*3ことは、ケインズ経済学を歴史のゴミ箱に放り込むことを意味してはいなかった。
  • 残念ながら、不完全情報ならびに不確実性と、価格と数量が共に変化するマクロ経済学の動学的調整過程との相互作用――その相互作用により、均衡からの乖離が従来の均衡モデルが仮定するような自己修正的なものではなく、累積的なものとなる――に対する理解を深める、という前途有望な研究は未だその発展途上にある。
  • Glasnerに言わせれば、合理的期待革命、特にロバート・ルーカスとその(新しい古典派やRBCやニューケインジアンにおける)弟子たちが信奉した経済学のドグマ的な方法論が、ミクロ的基礎付けの本来の目的を覆してしまった。従来の均衡分析における情報の仮定を緩めることにより、標準的な一般均衡理論が可能ならしめるよりも現実に近く実り多い分析をする、という代わりに、ルーカス一派は、洗練されたツールを開発して名目上は均衡情報の仮定を緩めながらも、合理的期待という横暴な手法を完全な市場清算と結び付け、一般均衡モデルの結論を基本的に温存してしまった。ケインズ非自発的失業理論とミクロ経済学の厳密な推論との間に架ける橋を約40年前にアルキアンは見い出したと考えていたが、誤った教条的な形式主義と、主要経済学術誌の編集における階層構造が押し付ける偏狭なミクロ的基礎付けの概念が、その溝を再び開いてしまった。

*1:ちなみに池田信夫氏も少し前にこの議論を取り上げている。また、後で気付いたが、昨日紹介したブログは本石町日記氏が既にツイートしていた

*2:David K. Levineは「Armen Alchian is known to his students and colleagues and others as the founder of the "UCLA tradition" in economics, a tradition that continues to this day.」と書いているこちらのブログで紹介されているアルキアンの同僚だったWilliam Allenの小論では、往時のUCLA経済学部を「the Alchian Department」と評している

*3:Glasnerはこの言葉「Reformulating macroeconomic theory」を、アルキアンの一番弟子だった故Earl Thompsonの未発表の論文へのオマージュとして用いる、としている。ちなみにThompsonがアルキアンについて書いた小論はこちら。Thompsonが2010/7/29に亡くなった際のDavid K. Levineによる訃報はこちら。そこには「Thompson was an idiosyncratic but brilliant thinker, and his death marks the end of an era for UCLA: Thompson is the last of the economists brought to UCLA by Armen Alchian in the 1960s to create the famed UCLA school of economics.」と記述されている。