マクロ経済学のミクロ経済的基礎付け:フォーリー=シドラウスキによる試み

今月の6日から9日に掛けて、ソロスの新経済理論研究所(Institute for New Economic Thinking)の今年4月のカンファレンスにおけるダンカン・フォーリー(Duncan K. Foley)の発表論文を紹介したが、今度はRajiv Sethiがフォーリーの自伝的エッセイを紹介している(出所は以下の本との由)。

The Makers of Modern Economics

The Makers of Modern Economics

Sethiの前回(11/17)エントリでは、フォーリーがHerbert Scarfから数理経済学の講義を受けた時の回想を紹介していたが、直近の11/19エントリでは、フォーリーと共同研究者シドラウスキのミクロ経済学によるマクロ経済学の基礎付けの試みが紹介されている。


以下はSethiによるフォーリーのエッセイからの引用部の拙訳。

私のMITでの最大の知的関心事は、やがて「マクロ経済学のミクロ経済的基礎」と呼ばれるようになるものだった。ワルラスによって構築され、ワルド(1951)、マッケンジー(1959)、そしてアロー=デブリュー(1954)によって精緻化された一般均衡理論を利用すれば、すべての商品の市場があらゆる条件下のあらゆる将来時点において存在するという仮定の下で、マクロ経済の現実を単純な集計値で表すことができた。しかし、結果として描き出されたマクロ経済の現実には、幾つか問題となる特徴があった。例えば、競争的一般均衡は効率的なものなので、稼動すれば費用を賄えるだけの生産性を持つ資源が活用されないという状況とは相容れなかった。これでは、失業率や工場や設備の稼働率が大きく変動するという通常良く見られる現象が説明できない。また、一般均衡理論では、経済での生産や交換を、直接消費可能な財やサービスの追求という形に単純化してしまい、その結果、貨幣の果たす役割が無くなってしまった。・・・一般均衡理論は生産や消費の変動を取り込むことができたが、それは、資源の利用可能性や技術や嗜好に対する外部ショックへの反応という形においてのみだった。こうした比較的緩慢に変化する要因で、先進国の資本主義経済に特徴的な大きな景気変動を説明するのは困難である。さらに、あらゆる条件下のあらゆる時点に市場が清算可能であると仮定することによって、一般均衡理論は・・・個人消費や投資や生産計画の整合性を保障したが、そのため、金融危機や資産価格の下落といった実際の資本主義経済において繰り返し発生する現象を説明することができなかった。・・・


一方でケインズ理論は、そうした問題を回避する体系的な方法を提供していた。ケインズは先進国の資本主義経済の現実の運行において貨幣は中心的な役割を担っていると考えていたが、それはまさに、経済主体間の将来見通しの違いを調整するようなあらゆる時点のあらゆる条件下の市場が存在しないためだった。経済主体は、自らの予測に基づく生産量を派生市場で完売することができないため、流動性制約下に置かれている。流動性制約下に置かれた経済では、失業や生産能力の不稼動を伴わずに要素市場が清算されるという保障は無い。市場価格の成立は、必然的に、不確実な将来に関する投機という側面を伴う。その結果、経済は、群集心理や自己充足的予言による内生的な変動に対して脆弱となる。こうした観点から見るならば、なぜ生産面でも金融面でも発達した資本主義経済で景気変動が特徴的なものとなるのか、あるいは、なぜ投資の配分が非中央集約的な市場で行われる場合に金融危機の可能性が拭い難いものになるのか、を理解することは難しくなくなる。・・・


ただ、ケインズの議論には多くの穴があった。例えば、生産や雇用や所得の水準を決定する短期的予想の均衡を提示するに当たって、ケインズは、生産が滞り無く進行した場合の販売量予測に基づいて生産を実行するために企業家が労働者を雇用し原材料を買い付ける、とした。・・・しかし、企業家が市場予測を立てる際の理論として、完全競争と完全な市場清算という仮定に取って代わるような体系的説明を提示することはなかった。やがて、それは解決が非常に難しい問題であることが詳細な検討によって明らかとなっていく。


名目貨幣供給を所与とすると、物価の低下は流動性増加の内生的要因になり得るように思われる。ケインズは名目物価水準が主に名目賃金水準で決まると論じたが、名目賃金の変動を定める動学に関する体系的説明を提示することは無かった。


貨幣がケインズ理論の支柱であったにも関わらず、貨幣の経済的起源や決定要因に関する理論を彼が実際に提示することは無かった。そのため、貨幣の流通速度のようなマクロ経済変数の変動を、商品の流通を支える過程と結びつけることが難しくなった。


ケインズの説得的なマクロ経済学の概念は、次から次へと、それを支えるべきミクロ経済的行動に関する未解決の疑問を投げ掛けた。


というわけで、1960年代後半の経済学は、古典的な科学的ジレンマを抱えることになった。即ち、ミクロ経済学一般均衡理論とマクロ経済学ケインズ理論の2つが存在し、それぞれが各分野で高い説明力を持つように思われたが、両者は相容れない、というジレンマである。両者のギャップを埋める架け橋となるべき総合理論の探索は、私にとって良い研究課題のように思われた。私のこの分野での研究目標は、当初から、ミクロ経済学の競争的均衡理論を改変し一般化して、ケインズ理論的なマクロ経済学的挙動を生み出すことにあったのである。


私はこの試みに2つの切り口から取り組むことにした。一つは一般均衡理論を弄って貨幣を説得的かつ統一的な方法で導入することである。もう一つはケインズマクロ経済学を競争的一般均衡と可能な限り両立するような形に書き換えることである。


後者の試みは、ミゲル・シドラウスキ(Miguel Sidrauski)との緊密な共同作業という形で最初に成果を挙げることができた。その結果が、「Monetary and Fiscal Policy in a Growing Economy」(Foley and Sidrauski, 1971邦訳(絶版))である。・・・我々の共同作業では、・・・経済における生産の経路に政府の政策が与える影響、という古典的な問題の分析を可能ならしめる標準モデルの構築を目指した。・・・資本財価格は資産市場で決定され、新規投資量は投資の限界費用がその価格と等しくなるように調整される、という私の認識に基づき、我々は二部門生産システムを仮定し、投資の限界費用が逓増するようにした。モデルの資産市場の均衡は、シドラウスキ(およびトービン)のポートフォリオ需要理論の一般化であったが、それはまた、ケインズ流動性選好理論の一般化であった。私の主な目標の一つは、ストックとフローの変数の関係を厳密かつ明示的に示すことにあった。そのため、モデルを連続時間における差分方程式の体系――その体系ではストックとフローの概念の違いが強調される――として分析した。各時点において、貨幣、債券、資本市場という資産市場におけるストックの清算は、労働と消費財というフロー市場の清算と共に、資本価格、金利、物価水準、所得、消費、そして投資を決定する。貨幣と債券の供給過程を決定する政府の政策は、投資フローの資本ストックへの追加と共に、モデルの時間的推移を明確に決定付ける。同書はまた、このモデルの比較静学や動学を詳細に論じている。・・・


「Monetary and Fiscal Policy in a Growing Economy」の評判はまちまちだった。・・・家計の資産と消費の需要を、異時点間の期待効用最大化から明示的に導かなかったことは、1970年代における選択としては流行遅れだったことが明らかとなった。当時の経済学者は、「完全合理性」に基づくモデルに多大な重きを置くようになっていたのである。シドラウスキと私はそうしたモデルの可能性については十分認識していた。そうした方向性を追究することは、シドラウスキの学位論文を一般化することを意味していた。シカゴ大学の1968年のあるコンファレンスで、David Nissenは完全予想のマクロ経済学モデルを提示し、その方向性の先にはワルラス一般均衡の結果への逆戻りが直ちに待ち構えていることを明らかにした。私にはそうした方向性が実際のマクロ経済の事象の理解に役立つとは思えなかったので、その線で研究を進めることは、いかにその結果が非現実的かを示すことが主眼になるものだとばかり思っていた。・・・


ワルラス一般均衡理論と異なるマクロ経済学理論を構築する試みは、ストックとフローの均衡の違いに強く依存していた。ケインズの考えでは、資産の保有者は、将来に関する完全な知識無しに、現存ならびにこれからの資産を投機的に評価することを余儀無くされる。我々のモデルでは、その瞬間を、資産市場の清算を通じて表現していた。ワルラス的な考えでは、そうした違いは、仮想的な先物やオプション市場の清算によりフロー価格に資産価格が取り込まれることによって消滅する。シドラウスキと私の研究が残した教訓は、一時的均衡の線を追究することによって完全なワルラス的体系から決別することが、新たなマクロ経済学の構築には不可避、ということだった。だが、ストックとフローの違いがマクロ経済学にとって意味するところが明確になると、「合理的期待」のスローガンの下にワルラスパラダイムに退避することでそれに対処しよう、という誘惑が米国の経済学者の間で圧倒的支持を得ることになった。・・・


私見では、ルーカスとサージェントがケインズモデルを「終わらせる」ために提示した合理的期待の仮定は、先物とオプションの市場が完備しているという仮定が姿を変えたものに過ぎない。合理的期待に関する研究分野における「期待」なる言葉を紐解いてみると、それらのモデルの仮定では、経済主体が、先物とオプションの価格を、現存の計画の集計と整合的な形で予想していることが明らかとなる。従って、それらの価格は、実のところ、先物とオプションの完備市場モデルにおける競争的一般均衡価格に他ならない。アロー=デブリューは、彼らのバージョンのワルラス的モデルが将来の不確実性によって生じる現実世界の問題に対処している振りを装うために、先物とオプションの完備市場の存在を仮定した。私に言わせれば、合理的期待アプローチは完全予想の仮定を置くにまで至ったが、その仮定はシドラウスキとの共同研究の過程で既に検討し、非現実性を理由に却下したものである。・・・経済理論における興奮に値するブレークスルーと経済学者たちが見做したものは、私にとっては、既に見切りが付けられた退屈で先の見えた道を再び辿ることに過ぎなかった。・・・

この引用部を受けて、Sethiは以下のように書いている(拙訳)。

私見では、フォーリー=シドラウスキのミクロ経済学による基礎付け手法の最も魅力的な点は、将来に関する相異なる予想に基づき、個人同士が相容れない計画を立てる可能性を許容したことにある。それは合理的期待仮説が除外したものだ。そのため、モデルを実証結果と合わせるために粘着的価格のような補助的な仮定が必要になる。
それに対し、(ジョン・ヒックスが導入した)一時的均衡という概念では、お互いに不整合な時系列的計画を持っていても資産市場が清算することを許容する。時間が経過してそうした不整合が露わになると、価格と生産に影響を与える動的な調整が行われる。その過程が合理的期待均衡に近いものに収束するとは想定できないが、そうなり得る状況は存在する。こうした経済の概念に最も近い今日の研究は、学習の動学に基づくものである。その研究はMarcet and Sargent(1989)とHowitt(1992)*1にまで遡るが、最近ではEvans and Honkapohja(2001)*2やEusepi and Preston(2010)がある。私は決してこの研究に精通しているとは言えないが、直観的には見込みのある方向性ではないかと思う。

*1:cf. ここここ

*2:cf. ここここ