ミクロ的基礎の問題点:悪しきミクロ

ネットで見掛けた下記のツイートのリンク先の論文を読んで、そういえば少し前にEconospeakでピーター・ドーマンがマクロ経済学のミクロ的基礎を批判した際にも効用理論を槍玉に挙げていたな、と思い出した。

https://twitter.com/naoshiy/status/234971434903019521:twitter


Econospeakを開くと、サイドバーの人気ポスト一覧で、表題の該当エントリ(原題は「The Problem with Microfoundations: Bad Micro」)が先頭に来ている。そこで、今日はそのエントリを訳してみる。

ノア・スミスサイモン・レン−ルイスポール・クルーグマンが既に各々の切り口でこの問題を取り上げているが、今や、嫌がられるほど忌憚の無い見解を述べるべき時が来たのかもしれない。マクロ経済学のミクロ的基礎というのは原則的には結構な話だ。必要欠くべからざる、というほどではないが、有用ではある。問題は、正統的なマクロ経済学の世界でミクロ的基礎として通用しているものが、屑だ、という点にある。


ああ、言っちゃった。屑とは言ったけど、糞とは言っていないからね。


それは、数学スキルをアップさせるために授業で出す練習問題の機械的な反復以上のものではなく、実証上の真実味といった現世的なことは一切考慮されていない。ここでは3つの致命的な欠点を挙げておこう。そのどれもが、有用であるべきモデルに大穴を開けるのに十分な欠点である。

  1. 効用理論
    • アンドリュー・ゲルマン*1はこれを「世俗心理学」と呼ぶが、それでも寛大な方かもしれない。それは例外に満ちている(「行動経済学」参照)。最も重要な問題は、過去数十年間の心理学、進化生物学、神経心理学、組織理論といった、行動が科学的に研究されている分野における研究成果を無視している点だ。
       
  2. 均衡が唯一であるという仮定*2
    • マクロ経済の理論家が使用するミクロ的基礎付けには、相互作用の効果によって複数均衡が生み出される余地が無い。個人、企業、商品はそれぞれ孤立した原子であり、市場で他の原子とぶつかるまで束縛されずに空間を漂っている。社会心理学、社会生態学、非凸な生産や消費の空間はお呼びでない、というわけだ。反面、進化生物学では、最初から適合面が非凸であると仮定されており、それが核心となっている。経済生活における相互作用の側面を無視しているが故に、経済学者は根本的に間違った問いを投げ掛ける。「何が均衡か?」「何が最適状態か?」といった問いだ。もしこの問題が貴兄にとって既に自明のことでないと言うならば、ここでもっと詳細な解説が読める。(念のため補足。相互作用の効果から生じる非凸性は市場の失敗とは無関係である。外部性の存在はそうした効果の必要条件でも無いし十分条件でも無い。自分で確認されたし。)
       
  3. 経路依存性
    • ミクロ的基礎は一般均衡理論を意味するが、そこで用いられる風味は1950年代半ばのものである。初期条件および均衡の外の取引が均衡そのものを変えるというゾンネンシャイン=マンテル=デブリューの証明(1970年代にようこそ)は一般均衡理論を引っ繰り返した(彼らは上記の問題2が無いものとしている)。

代表的個人やエルゴード性に対する非主流派のお決まりの批判に触れなかったことに注意されたい。お好みならばそれらを付け加えても良い。


そして、ここからが肝心な点だ。クルーグマンが指摘したように、実証問題に取り組むか、それとも自分たちのミクロに基礎付けされたモデルの整合性を維持するか、という二者選択を迫られた時、マクロ経済学者たちは集団として後者を選んだ。それは、彼らが自分たちの使っているミクロ理論が紛うこと無き本当の真実であると信じているためであり、その理論に結び付けられないモデルは科学的であるとは見做せない、と信じているためである。もし、最適化を行う主体を擁し、市場の外での相互作用は存在しない1950年代半ばの一般均衡理論が、経済学を整合的に考えるのに使える唯一の枠組みである、ということを我々が実際に確実に知っているならば、彼らは正しい。しかし、そうではない。


最初に言った通り、彼らのミクロ的基礎は屑なのだ。

*1:cf. ここ

*2:cf. ここ