昨日紹介したMatt O'Brienや以前紹介したサマーズが書いているように、ブレグジットは英国に景気後退をもたらす、という見方は多い。それに対しクルーグマンが、6/30エントリで、EU市場へのアクセスが低下することによって貿易が減少し、長期的に英国の成長率が下がる、というのはリカードの原理プラス新貿易理論という標準的な経済学から納得できるが、短期的にも景気後退に陥るのは納得できない、と書いている。というのは、貿易の議論は生産性が下がるという経済の供給面の話であるが、景気後退の議論は需要面の話だから、とのことである。
クルーグマンに言わせれば、そうした短期的な景気後退の議論が依拠している命題は、不確実性が投資や消費を低下させる、もしくは、人々の認識するリスクの増大によって金融の状況が悪化する、のいずれかとのことである。これについてクルーグマンは、以下のような疑問を投げ掛けている。
- ブレグジットは確かに不確実性を増加させるが、それが投資にとって良くないこととは限らない。不確実性の投資への悪影響は理論的には自明ではなく、基本収益を確保するために不確実性下で企業は投資を増やす、という研究もある。
- 企業が「不確実性の増加」を言う時には、平均が同じで信頼区間が広がる現象を指しているのではなく、悪いことが起きる可能性の増加を指しているのではないか? ブレグジットのもたらす不確実性について書いている人も同様ではないか? その場合、企業が悪いことが起きる可能性が増えたと考えるであろうから悪いことが起きるだろう、という循環論法ないし結論を仮定する論法に陥っているのではないか?
- 政策の大きな変化があるとその帰結を誰も見通せないために不確実性が生じる、と言うのであれば、貿易の自由化や民営化や労働市場改革についても景気後退懸念が聞かれるべき。「不確実性が投資を抑制する」論は、経済学者が別の理由で嫌う政策に対してのみ選択的に繰り出されているように思われる。
- ブレグジットが人々の認識するリスクを増大させて金融の状況を悪化させるという議論も、投資家が悪いことが起きることを予期しているために悪いことが起きる、という同様の循環論法に陥っているように思われる。
その上でクルーグマンは、自由貿易を擁護するためには多少いい加減な議論を振り回しても良いと経済学者たちは考えているのではないか、という以前からの疑念を再説している*1。
このエントリに対しては幾人かのトップクラスの経済学者から反論が寄せられたようで、7/2エントリでクルーグマンは、それらの反論の主旨を、ブレグジットによって待つというオプションに価値が生じた、と一言でまとめている。そして、その議論は興味深く弁護可能であるとしつつも、改めて以下の3つの疑問を投げ掛けている。
- ブレグジット後に関する不吉な予測は皆、本当にその議論に基づいているのだろうか? むしろ不確実性と悪しき出来事の可能性の増加を同一視している論者が多いのでは? 待つというオプション価値の話は、これまで聞いてきた話よりも精妙なもののように思われる。
- その議論は、不確実性がどちらの方向であれ解消された暁には、投資ブームが起きることを含意しているのではないだろうか? 例えば、ファラージ首相とルペン大統領がEUの解体を決めたら待つ理由は無くなるので、抑えられていた投資が一挙に再開されるのではないか? しかし、ブレグジットの縮小効果に続いて、事態が落ち着いた段階で補償的な好況が訪れるという話は聞かない*2。
- その議論は、結果が見通せない政策交渉すべてについて当てはまるのではないか? 例えばTPPやTTIPが縮小的である可能性もあるのでは? しかし、貿易自由化協定が実際に結ばれるかどうかを待つために企業が投資を先延ばしにすることによって景気が悪影響を受ける、という議論は聞いたことが無い。
ブレグジットを支持するものではないが、ブレグジットを非難するがために議論の質を落としてはならない、という点をクルーグマンは強調している。またクルーグマンは、金融市場の反応が一部の予想ほどひどくなかったことも指摘した上で、自分が間違っている可能性は十分にあるが、議論のベースとなるマクロ経済学は皆でしっかり押さえておこう、と述べてエントリを結んでいる。