マクロ経済学は1958年に道を誤った

とジョン・クイギンが書いている。かつてロバート・ゴードンは1978年時点のニューケインジアン経済学は今日のDSGEの手法より優れていたと論じたが、クイギンは、そこから遡ること20年前に既にマクロ経済学は道を逸れていた、と言う。


1958年というのは、フィリップス曲線が発見された年である。クイギンは、その発見後に、フィリップス曲線の誤用、それに対する過剰な訂正、そして再訂正といったプロセスが続き、確かにその過程で得られた知見も多いものの、それ以上に忘却の彼方に追いやられた知見が多かった、と主張する。その結果、アービング・フィッシャーのようなケインズ以前の経済学者でさえ馬鹿げていると思うであろう議論が今日の経済学者の間でまかり通っている、とクイギンは言う。


最初の間違いは、サミュエルソンやソローらのケインジアンによるフィリップス曲線の解釈であった。当初の彼らの論文では期待に関する注釈などが付いていたものの*1、政策論議の過程でそうした注釈は忘れられ、政策担当者は財政金融政策を用いてインフレと失業率のメニューから好きな箇所を選べる、というファインチューニング論に単純化されていった。クイギンは、「もし彼らがフィリップス曲線をどのように使うか分かっていたら、あれを描かなかっただろう」というフィリップスが言ったとされる言葉を引用している。


この動きを批判したのがフリードマンで、インフレと失業のトレードオフは一時的なものであり、高インフレが期待に組み込まれると失業を減らす効果は失われること、および、政策の効果発揮までには長く変動するラグがあるので短期のファインチューニングは不可能であることを指摘した。


クイギンによれば、フリードマンの批判は概ね正しく、1970年代のインフレにより実証された。だが、幾つかの点で見落としや行き過ぎがあった。即ち:

  1. インフレ率がゼロ近傍の場合には、名目金利がマイナスになれないという事実から、実際にトレードオフが存在する。
  2. フィリップス曲線の批判から自然失業率の概念を導き出した。
    • ブランシャールとサマーズが「履歴効果」と名付けたように、高失業率は自らを持続させる効果がある*2。従って自然失業率は失業率が高い時期に高くなり、政策の参考指標としてあまり意味を持たない。
  3. ファインチューニング批判から、マクロ経済政策はルールベースの金融政策に限定されるべきであり、財政政策は何ら役割を担うべきではない、という結論を導き出した。
    • これはその後の主流派の考えとして定着した。


1970〜80年代には、フリードマンの行き過ぎたケインズ経済学批判が極限まで推し進められ、リカードの中立命題、政策無効命題、ミクロ的基礎付け、リアルビジネスサイクル、(強形式の)効率的市場仮説といった概念が、取りあえず経済学者が納得する形で提示された。それらを支持する実証結果は乏しかったが、ケインジアンモデルもあまり上手くいっていなかったことから、話が進んでいくのを止めるものはいなかった。


ニューケインジアンの対応は、標準化されたマクロ経済学を受け入れつつ、その前提に説得力のある変更を加え、幾つかのケインズ経済学の結果が少なくとも短期的には依然として有効であることを示す、というものだった。そして、古典派がk%ルールのような完全に受動的なマクロ経済政策が良いと考えたのに対し、インフレ目標を掲げる中銀が追求するような反景気循環的な金融政策を正当化した。こうして、ニューケインジアンが財政政策を捨て去り、長期については古典派の見解、短期についてはフリードマンの見解の大部分を受け入れる一方で、ニュークラシカル側が短期の積極的な金融政策を受け入れるという妥協ないしコンセンサスが成立した。


こうしたコンセンサスについては、それがもたらした大平穏期はそれ以前の時代より良かった、として評価するサイモン・レン−ルイスのような経済学者もいる。彼らは大平穏期は政策の成功であり、大不況はそれとは直接関係の無い金融市場規制の失敗によって引き起こされた、と考えている。しかしクイギンは、大平穏期と今回の大不況は表裏一体だとして、その意見には与していない。というのは、

  • 金融抑圧が存在しない場合、資産価格バブルは低く安定したインフレ率と結び付いている。
  • しかし、中央銀行はバブル潰しのために金利政策を用いることを拒否した。
  • また、大平穏期の政策的枠組みは金融抑圧とは相容れなかった。
  • 従って、大平穏期をもたらしたまさにその政策が、大不況を招いた。

と考えているから、との由。


最後にクイギンは、1958年以降になされたことをすべて捨て去ってそこからやり直せ、とは言わないが、多くの点で、そのようにした方が現在の方向をそのまま進むより良い選択ではないか、と述べている。

*1:cf. ここ

*2:cf. ここ