ハイエクの罠に落ちた国際決済銀行

金融政策の限界を訴えた国際決済銀行(BIS)の年次報告書を、ジョン・テイラー池尾和人氏が称賛する一方、ライアン・アベントが詳細な批判を繰り広げている


その中でアベントはBISのことを、ハイエク的(ないしメロン的)な清算主義、と批判しているが、そのアベント論説を受けてDavid Glasnerが、BISはハイエクが40年近く前に捨てた立場に立脚している、と論じたのが面白い。

そこでGlasnerは、ノーベル賞受賞後間もない1975年4月9日のハイエクのAEI講演での以下の発言を引用している。

You ask whether I have changed my opinion about combatting secondary deflation. I do not have to change my theoretical views. As I explained before, I have always thought that deflation had no economic function; but I did once believe, and no longer do, that it was desirable because it could break the growing rigidity of wage rates. Even at that time I regarded this view as a political consideration; I did not think that deflation improved the adjustment mechanism of the market.
(拙訳)
あなた(=ゴットフリード・ハーバラー[Gottfried Haberler])は、二次的なデフレと戦うことに関して私が意見を変えたかどうかをお尋ねになりました。その件に関する私の理論的な見解については、変える必要は無いと思います。先ほどご説明した通り、デフレは経済的機能を何ら持たない、というのが、以前からの私の変わらぬ考えです。ただ、以前は、賃金の硬直的な上昇に歯止めを掛けるという点でデフレは望ましい、と考えていました。今はもうそのようには考えていませんし、かつてそのように考えていた時も、それは政治的見解であると認識していました。デフレが市場の調整メカニズムを改善すると考えていたわけではありません。


そして、BIS報告書の以下の一節をこのハイエクの発言と対比させている。

Although central banks in many advanced economies may have no choice but to keep monetary policy relatively accommodative for now, they should use every opportunity to raise the pressure for deleveraging, balance sheet repair and structural adjustment by other means.
(拙訳)
多くの先進諸国の中央銀行は、現段階では相対的に緩和的な金融政策を維持する以外の選択肢は無いかもしれないが、彼らはあらゆる機会を捉えて、他の手段による債務削減やバランスシート修復や構造調整への圧力を高めるべきである。


Glasnerは、この「債務削減やバランスシート修復や構造調整への圧力を高める」という表現は、ハイエクが上記講演で自ら否定した「賃金の硬直的な上昇に歯止めを掛ける」というデフレ志向の発想に現代的な装いを凝らしたものに過ぎない、と喝破し、「Plus ca change, plus c’est la meme chose」と嘆いている。



ちなみにアベントは、このBISの見解に絡めて以下のように述べている。

...in general central banks have been entrusted with demand management. Failures of elected officials must be dealt with through the political process, and central bank intervention in such matters represents a dangerous and unwarranted overreach.
(拙訳)
一般に中央銀行は需要管理を任されている。選挙で選ばれて公職に就いた者の失敗は政治プロセスで対処すべきであり、そうしたことに中央銀行が首を突っ込むのは、危険かつ正当とは認められない出過ぎた真似である。


その上で、論説を以下のように締めくくっている。

Central bankers will inevitably face limits on what they can achieve. These limits will occasionally be due to political choices and will often be uncomfortable or unpleasant for those central bankers. For a central bank to neglect its primary responsibilities in an effort to circumvent those limits is the height of folly and hubris. If the world is lucky, central bankers will discount the recommendations of the BIS, will instead engage in a bit of self-examination, and will go back to figuring out how best to use their tools to shepherd demand toward potential. If the world is unlucky, central bankers will embrace the BIS' excuse-making and opt instead to place unnecessary pressure on politicians that are already facing plenty of it. In that event, tough times indeed are ahead, the advent of which may usher in a regime change in thinking about central bank structure, governance, and policy.
(拙訳)
中央銀行家たちは否応無しに達成可能なことについての限界に直面するだろう。そうした限界は、時として政治的選択によるものかも知れず、彼ら中央銀行家たちにとっては居心地の悪い、ないし不快なものとなることも少なくないだろう。中央銀行がこうした限界を回避しようとして一義的な責任を放棄することは、愚行と傲慢の極みである。もし世界が幸運に恵まれれば、中央銀行家たちはBISの推奨を無視し、その代わりに自己検証を多少なりとも実施し、需要を潜在成長力に見合ったものとするために自らのツールをどう使うのが最も良いかを見い出そうとするだろう。もし世界がそれほど幸運でなければ、中央銀行家たちはBISの弁明語録をこれ幸いと受け入れ、既に多大な圧力に曝されている政治家にさらに余計な圧力を掛けようとするだろう。その場合、実際に苦難の時が我々のもとを訪れ、そのため中央銀行制度やガバナンスや政策に関する考え方に抜本的な方向転換をもたらすことになるだろう。

世界はともかくとして、日本はそれほど幸運では無いうわなにをするやめrくぁwせdrftgyふじこlp