昨今の経済学は科学か?という論争に絡めて、Mark ThomaがHal Varianの「What Use is Economic Theory?」と題された1989年の論文を紹介していた。以下はその概要。
- 経済学理論を審美的な観点から捉える人もいるが、そうした観点だけでは経済学理論というものの全体像を掴んだことにはならない。経済学は政策科学であり、従って経済学理論も経済政策の理解と遂行への貢献という観点から評価されるべき。
- 経済学が他の自然科学や社会科学と違うのは、人々の生活の改善をもたらす政策について説明する、と謳っていること。もちろん自然科学も人々の生活水準向上に貢献するが、それは、研究対象の機能の理解という本来の知的活動の副産物に過ぎない。
- 多くの方法論者は、経済学のそうした本質を見誤っている。経済学は、物理学ではなく工学、生物学ではなく医学と比較されるべきものなのである。ケインズが経済学を歯医者に喩えた時、かれは半分は本気だったはずだ。工学や医学や歯科学、そして経済学にとっては、有用なものが価値あるものなのであり、方法論についてこだわる者はあまりいない。
- 物理学とは対照的に、工学や医学についての方法論が発達してこなかったことは、考えてみれば驚くべきことだ。それは、経済学が手本にすべき方法論が存在しないことを意味している。このことは、方法論と社会科学の哲学に興味を持つ者にとって、極めて興味深い課題を提示している。
- 以下では経済学理論がどのように政策に役立つかをリストアップしてみる:
- データの代替
- データが利用不可能なときに、理論を代替に使う。例:
- 税率上昇の効果を調べる時、人々は税込みの全体価格のみ気に掛ける、という理論を利用する。
- 人々の選好に関して悉皆調査ができない時、選好の推移性を利用する。
- データが利用不可能なときに、理論を代替に使う。例:
- どの変数が重要で、それをどのように測定するかを教えてくれる
- モデルを使えば、限界税率50%でラッファー効果が現われるのは労働供給の弾力性が1の場合である、といったことが分かる。かつてラッファー曲線はそうした理論抜きに政治論議の俎上に乗せられたため、混乱を招いた。
- リスク資産への投資に関する理論も良い例。富が増えるに連れ、リスクを取りたがらない傾向が強まる半面、リスクを引き受ける余裕が高まるので、最終的にリスク資産への投資が増えるか減るかは直観的には分からない。リスク回避度と富の関係を理論的に分析することにより、富の変化によるリスク資産への投資の変化を予測することができる。逆に、富の変化に伴う投資の変化を計測することによって、リスク回避度と富の関係を導くことができる。
- 費用便益分析への貢献
- 選択に関する理論モデル抜きでは、便益と費用の正しい測定を決定することは不可能。例:現在価値やリスク調整済みリターンの評価
- 費用便益分析自体は経済学のごく小さな一分野に過ぎないが、その背景にある考え方は経済学全般に共通のもの。個人の目的関数から個人の選択、さらには社会的目的関数や社会的選択を導出することは、多くの経済学研究で広く行われている。
- 一見懸け離れた問題を関連付ける
- 有用な洞察の提供
- 誤った理論でさえ洞察を提供する
- 完全競争は多くの市場にとって「誤った」理論であり、完全独占も然り。しかしそれでも、ある市場がどのように機能するかについて極めて重要な洞察を提供してくれる。経済理論にとって重要なのは、真実か否かではなく、経済事象の説明に有用な洞察を提供するか否か、である。
- 自著の学部生向けの教科書では、アパートを分譲マンションに転換する時、一室だけを転換しても、その部屋が需要と供給の両方から消えるだけなので、アパートの残りの部屋の価格には影響が無い、と論じた。もちろん需給面以外の要因でアパートの残りの部屋の賃貸料に影響は出るだろうが、需給面だけの要因に限れば影響は無い、というのは考察の第一歩。
- 問題解決方法の提供
- 新古典派ミクロ経済学の方法は以下の通り:
- 個人の最適化問題を検討する
- 個人の選択における最適な均衡の状態について考察する
- 政策変数が変化した場合にその均衡がどのように変化するかを調べる
- この方法は常にうまくいくとは限らない。行動や均衡に関するモデルが間違っているかもしれないし、検討対象としている事象を、行動の最適化や均衡の結果と見做すことが適切ではないかもしれない。しかし、何も無いよりはまし。ロジャー・ベーコン曰く「真実は混乱よりは誤りから現われる」。
- 方法論的個人主義が世界を見る上で限界を抱えていることは疑いない。反乱や階級への忠誠心といったものを描写する上ではあまり役に立たないだろうし、適用に適した行動とそうでない行動があるだろう。しかし、すべての問題に洞察を加えるとは言えるのではないか。
- 新古典派ミクロ経済学の方法は以下の通り:
- 思い込みへの解毒剤
- 大抵の人は、個人的な考察や個人的経験から、経済に対する考えを身に付ける。経済理論は、そうした思い込みへの解毒剤となる。
- 例えば、需要曲線が完全に非弾力的である、という考えは広く浸透している。しかし、ほとんどの人々が価格変化によって需要を変えないとしても、少数の人々は変える。その少数の人々は、価格水準によって入れ替わる。それが右下がりの需要曲線を生み出すのだ。
- 自由貿易も好例。人々は輸入品を普段目にするが、海外旅行を頻繁にしない限り輸出品を目にすることはあまり無い。そのため、海外への支出には気付くが、海外からの収入には気付きにくい。
- インフレへの偏った受け止め方も例として挙げられる。個人は、物価の変動は外生的なものとして捉えるが、賃金の変動は個人的なものとして捉える。従って、両者が同率で上昇したとしても、賃金の上昇は当然のものと考えているので、暮らし向きが悪くなったように感じる。
- 自明と思われていたことの検証により、それが自明ではないことを示す
- 経済学者は自明なことに多大な労力を費やす、と批判される。しかし、自明と思われていた理論の多くが、実は自明ではないことが示されている。例えば、需要曲線が右下がりなのが当たり前と思われ勝ちだが、理論分析ではそうでない需要曲線があり得ることが明らかになった。
- 経済理論では、利益最大化を目指す企業は価格が低下すると供給を減少させることが示されている。しかし、農家は、牛乳価格の維持政策をやめれば、前と同じ収入を確保するために供給を増やす、と主張する。経済理論を当てはめれば、それは正しくないことが分かる。
- 戦略的相互作用も、直観に反する帰結が理論から導き出される良い例。2人のゼロサムゲームの簡単な分析により、テニスでバックハンドが上手くなれば、その使用頻度はむしろ少なくなることが示される。
- 競合相手の価格まで下げます、と公けに標榜することは、非常に競争的な市場の証のように思われる。しかしカルテルの可能性を考えると、それは自明ではない。
- 定量化と計算を可能にする
- ケルビン卿はかつて「測定できず、数値で表わすことができないならば、それに関する知識は貧弱で不満足なものである」と述べた。
- 理論経済学は、経済関係を計算して定量化する枠組みを提供する。例:上述のラッファー曲線
- この計算可能性が、経済学と他の社会科学を分かつ大きな特徴となっている。社会学、政治科学、歴史学、人類学では計算はあまり目にしないが、経済学は計算で満ち溢れている。
- 経済理論の出す計算結果が正しいか否かはモデルが正しいかどうかに依存する。ただ、兎にも角にも、計算可能なことは良いモデルの必須条件である。
- 経済学の学習は、問題を多く解くこと抜きには不可能。数多くの著作を出版した電子工学者のリチャード・ハミング*1は、生徒が最終的に解けるようになってほしい問題を集め、その解法を示す形で本を書け、という教科書の書き方に関する素晴らしいアドバイスを自分にくれたことがあった。そのアドバイスに従って、取りあえず成功したと言えると思う。
- 経済学の実験による検証を可能ならしめる
- 新古典派の経済モデルは、問題に対する答えを計算することを可能にするので、そうして計算した答えと、制御された実験による結果を照らし合わせることが可能となる。実験経済学は、過去20年間の最大の成功例の一つと言えると思う。標準的なモデルのうち、需給モデルは、20年前に思われていたよりもかなり頑健性が高いことが示された。その一方で、期待効用モデルは、それほど頑健ではないことが示された。
- こうした意外な結果が出てくることにこそ、実験の価値がある。実験経済学の発達は、多くの理論家たちに、複雑で抽象的で一般的なモデルよりは、単純で明確で検証可能な理論を構築することを促した。また、学習モデルの研究に最近注目が集まりつつあることにも疑いなく貢献している。さらに、理論の行き詰まり――ゲーム理論の均衡概念をもっと複雑精妙な形にするといった一部の研究で見られるような――に対して警鐘を鳴らすことに役立つ。
- 理論と実験の相互作用は今後も高まっていくだろう。経済学者が研究室での実験に熟練していけば、現実世界での「自然実験」を特定する技術も向上していくだろう。そうしたことが経済行動に関するモデルの改善につながらないはずが無い。