昨日紹介したAdam Ozimekのエントリでは、Russ Robertsが1月に書いたブログエントリを議論の出発点にしていた*1。しかし、そのRobertsのエントリは、ScienceBlogsの「Mike the Mad Biologist」によってかなり手厳しく批判されている(H/T Econospeak)。以下ではそれを紹介してみる。
I have often said that economics, to the extent it is a science, is like biology rather than physics. Let me try to make that clearer. By biology, I do not mean the study of the human cell, which we have made a great deal of progress understanding though there is more to learn. I am thinking of biology in the sense of an ecosystem where competition and emergent order create a complex interaction of organisms and their environment. That sounds a lot like economics and of course it is. But we would never ask of biologists what the public and media ask of economists. We do not expect a biologist to forecast how many squirrels will be alive in ten years if we increase the number of trees in the United States by 20%. A biologist would laugh at you. But that is what people ask of economists all the time. Economists should be honest and say that the tasks they are often asked to do are outside the scope of economics as we know it and perhaps outside the scope of economics as it will ever be known.
Erm, no. Actually, ecologists not only answer those types of questions for regulatory purposes all the time (e.g., forestry biologists, fisheries biologists, pest control, crop management), but they routinely answer much more difficult questions, such as how does a temperature increase combined with less rainfall affect pine populations due to a change in bark beetle populations. Biologists have been running simulations (which are different from models) for a very long time.
(拙訳)
私は、経済学が科学であるならば、物理学よりはむしろ生物学に近い、と言い続けてきた。その点についての自分の考えをもっと明確化してみる。生物学と言った時に私が意味しているのは、ヒトの細胞に関する研究ではない。その研究は、まだ未解明の部分が多いにせよ、研究対象の理解に関して長足の進歩を遂げた。そうではなく、私が考えているのは、生態系という意味での生物学である。そこでは、競争と自生的秩序が、生物と環境との間の複雑な相互作用を生み出す。そう述べると経済学に非常に近いように聞こえるが、もちろん実際にそうである。しかし我々は、一般大衆やメディアが経済学者に尋ねるようなことを生物学者に尋ねるようなことは決してしない。我々は、今後10年間に米国の木の本数を20%増やしたら、リスの生息数は幾らになるだろうか、ということを生物学者が予測するなどとは期待しない。そんなことを訊いたら、生物学者は鼻で笑うだろう。しかし人々は、経済学者に始終そうしたことを訊いているのである。経済学者は率直に、自分たちにしばしば要望される仕事は、現在の経済学の範囲外であり、おそらくは未来永劫に亘って経済学の範囲外であり続けるだろう、と言うべきである。
えーと、それは違う。実際のところ、生態学者は規制監督を目的としたそうした質問にしょっちゅう答えているだけではなく(たとえば、森林生物学者、漁業生物学者、害虫駆除、農作物管理)、気温上昇と雨量減少が組み合わさった場合にキクイムシの生息数が減ることによって松の本数がどう変わるか、といったもっと難しい問題にも良く答えている。生物学者はシミュレーションを行う(それはモデルとは違う)ことに関して長い伝統を持っている。
Is economics a science because it is like Darwinian biology? Darwinian biology is very different from the physical sciences. Like economics it is a very useful way to organize your thinking about complex phenomena. But it is not a predictive or very precise science or whatever you want to call it. Before seeing any direct fossil evidence, no biologist can tell you how long the giraffe's neck was ten million years ago. They cannot make accurate backcasts of any precision such as the year that the forerunner of the giraffe began to lengthen its neck through natural selection. It cannot model why the giraffe's neck isn't longer. Darwinism, like much of economics, exploits tautological reasoning. If the fossil record is incomplete or shows no change or vast periods or the pace of change is inconsistent with the fossil record, the theory is not discarded but modified with the concept of punctuated equilibrium. Is punctuated equilibrium true? There is no real way of knowing. It is our best hypothesis given very limited data. Is it a science? Sure. But it is a science that is unlike physics. That's OK. It is still a very useful way of organizing one's thinking about evolution. And the "imperfection" of biology is fine unless you really want to know when the elephant got his trunk. Then you are in unscientific territory. It doesn't matter whether our understanding of natural selection is imperfect or that we simply don't have enough fossil data. Biologists understand the limits of their field.
Whenever you hear the term 'Darwinian' from anyone other than historians of science, assume the crash position; it's going to get real ugly. There's a lot here to correct (but we like helping!). First, evolutionary biologists do predict past states: whenever we reconstruct evolutionary histories (phylogenies), we reconstruct the ancestral past states. And if we have molecular data, we can often attach a rough estimate of time to those states. We certainly can get the order in which events occurred estimated reliably.
The part about tautology is an egregious misunderstanding of the theorem of natural selection. The theorem of natural selection is, well, a theorem because it is repeatedly supported by multiple, independent lines of evidence. The punctuated equilibrium hypothesis isn't a theorem. It is simply a testable prediction of how the outcome of natural selection should be reflected in the fossil record. Sometimes 'punk eek' does fit the observed data, and sometimes it doesn't. This is what one expect of a discipline that deals with historical contigency--as does economics. As a dissertation committee member once told me, "It all comes down to those stupid fucking natural history facts."
(拙訳)
経済学が科学であるのは、ダーウィン的生物学に近いためであろうか? ダーウィン的生物学は、物理科学とはまったく異なる。経済学と同様、それは複雑な事象に関して考えをまとめるのに非常に有益な方法である。しかし、どう呼ぼうとも、予測科学ではないし、精密科学でもない。実際の化石の証拠を目にしない限り、1000万年前のキリンの首の長さが分かる生物学者は一人もいない。キリンの祖先が自然淘汰によって首が長くなり始めた年を少しでも正確に述べるなどということは生物学者にはできない。また彼らは、キリンの首がなぜもっと長くないかをモデル化することはできない。ダーウィ二ズムは、多くの経済学と同様、同語反復的な推論を行う。もし化石の記録が不完全、もしくは長い期間に亘って変化が無い、もしくは変化の速度が化石の記録と不整合な場合には、理論は棄却されるのではなく、断続平衡説という概念を用いて改変される。断絶平衡説は正しいのか? それを知る術は無い。極めて限られたデータのもとでは、それが我々の考え得る最善の仮説なのだ。それは科学なのか? それは確かにそうだ。ただし、物理とは異なった科学である。そしてそのことは問題では無い。進化に関しての考えを整理する上で非常に有益な方法には変わりないからだ。そのような生物学の「不完全性」は、象の鼻が今のようになった時期をどうしても知りたいなどと思わない限り、問題とはならないのだ。そうしたことを知ろうとすると、非科学的な領域に足を踏み入れることになる。我々の自然淘汰に関する知識が不完全であることや、十分な化石のデータが手元に無いということは、さして問題では無い。生物学者は自分たちの分野の限界をわきまえている。
科学史家以外の人間から「ダーウィン的」という言葉を聞いた場合は、衝突に備えた姿勢を取るべし。非常に面倒なことになること請け合いだ。上記の文章には正すべき点がたくさんある(でも我々は人助けが好きだしね!)。まず、進化生物学者は、過去の状態を推測する、ということを実際に行っている。我々が進化の歴史(系統発生)を再現する時には必ず、祖先の過去の状態を再現する。そして、もし分子レベルのデータがあれば、それぞれの状態の時期を大まかに推測する、ということも良く行う。我々は、事象の発生順序について信頼性の高い推測を行うことが間違いなくできる。
同語反復という部分は、自然淘汰の法則に対する大いなる誤解である。自然淘汰の法則が法則たる所以は、複数の独立した一連の証拠によって繰り返し支持されているからである。断絶平衡仮説は法則ではない。それは、自然淘汰の結果がどのように化石の記録に反映されるかについての検証可能な予測に過ぎない。断絶平衡説は観測されたデータに適合することもあれば、適合しないこともある。それは、歴史的な偶発的出来事を扱う分野では予想されることである――経済学におけるのと同様に。ある論文審査委員がかつて私に言ったように、「すべては、馬鹿馬鹿しくも忌々しい博物学上の事実に帰着するのだ」。
Robertsのように経済学と生物学の比較を論じたものと言えば、クルーグマンの講演録(山形浩生氏訳)が思い浮かぶが、実際、ブログ主のMikeは、上記の「馬鹿馬鹿しくも忌々しい博物学上の事実」という箇所でリンクした2009/9/10エントリ(およびそこでさらにリンクした2009/9/8エントリ)でそのクルーグマン講演を取り上げ、両学問の共通性を論じたクルーグマンの切り口を評価しつつも、データの集積が生物学に果たした役割をクルーグマンは軽視している、と批判している*2。そして、そうしたデータ重視の考えを経済学に当てはめたものとしてMikeが評価するのが、アイケングリーンが今後の経済学のあるべき姿として提示した実証に基づく帰納の経済学である。
なお、Mikeは、返す刀で、今回の住宅バブルの結末を予測できなかった経済学者を、耐性菌の発生の予測に絡めて以下のように批判している。
But the failure to predict the housing crisis isn't equivalent to getting the specific adaptive change involved in a particular case of resistance wrong; it's the equivalent of saying, "Don't worry, be happy" because resistance won't evolve. I'll forgive missing the specific, but the general outlines should be correct.
(拙訳)
しかし、住宅危機を予測できなかったことは、特定の耐性菌に関する特定の適応的変化を間違えたことと同じではない。それは、耐性菌は進化しないだろうから「心配するな、大丈夫だよ」と言うのと同じである。個別的な事例を見逃すことは許容できようが、全般的な方向性については間違えてはならない。
この批判は、以前ここで紹介した別の進化生物学者による例示と照らし合わせてみるとより分かりやすいだろう。
即ちMikeは、住宅バブルは、明日の天気のような個別具体的な予測の問題ではなく、冬の気候のような一般的な予測の問題だった、と主張しているわけだ。
ちなみに、こうしたMikeの批判に対しコメント欄では、Robertsの生物学に関する間違いを指摘するのは結構だが、そうした異端の経済学者のブログに基づいて経済学者全体について云々するのはやめろ、というコメントが複数付いた。それらのコメントは、まさに
彼らは、身内どうしでは、何の抵抗もなくその分野の欠点について不満を述べていた。…だが部外者の集団から同じことを聞こうなどと、だれが思おうか。
経済学者vs物理学者・続き - himaginaryの日記
という反応の典型例に思われる。