均衡の近郊

昨日紹介したノアピニオン氏の経済学の均衡に関する解説の続き。

  • 異なる「期間」について異なる均衡がある
    • 定常状態も均衡の一形態であるが、その定常状態に達する前に経済が「均衡している」ことはあり得る。例えばラムゼイ成長モデルでは、経済は定常状態に達する前でも常にワルラス均衡の状態にある。よって、定常状態に達した後は2種類の均衡状態にあることになる。
    • このように、動学経済モデルはしばしば短期と長期の均衡を持つ。両者の違いは、それぞれの均衡に経済が達する速さにあり、その速さはモデルの仮定で定まる。例えばラムゼイモデルでは価格や計画は極めて速やかに調整されるが、資本の調整は遅い。そのため、ワルラス均衡は常に成立していると考えられるが、定常状態が成立するのは将来のいつか、ということになる。
    • ニューケインジアンDSGEモデルでは、均衡の数はもっと多くなる。
      • 「短期」の均衡:価格は未調整だが、計画は均衡している
      • 「長期」の均衡:価格は調整され、需給は均衡するが、資本は定常状態に達しているとは限らない
      • さらに長期の均衡:定常状態
    • 計画の調整もモデルに取り込めば、「超短期」という概念が成立する。
  • すべての均衡は不均衡を伴う
    • このことは、短期と長期の均衡の違いを認識した時点で明らか。
    • あるモデルの均衡は必ず別のモデルの不均衡動学となる。従って、「我々は不均衡動学をモデル化すべきか?」という問いはあまり意味のあるものではない。
  • 安定性は重要だが、それを単に仮定すべき時もある
    • 安定的な均衡もあるが、不安定な均衡もある。
    • ある期間の均衡を扱うモデルでは、それより短い期間は必然的にモデル化の対象外となる。
      • それが嫌ならば構成粒子まで遡ってモデル化する必要があるが、そうした方向性は間違っていると同時に馬鹿げている。
    • モデルで扱う期間より短い期間で調整される事物の安定性については、仮定を置くしかない。
      • 仮にそれが不安定だと仮定した場合でも、その調整を統べる確率過程はある段階では安定的と仮定せざるを得ない。
    • モデルで扱う事物については安定性を確認する必要がある。
      • 例えば成長モデルを構築している場合は、成長に係る時間スケールが価格調整に係る時間スケールよりもかなり長いと考えるならば、調整需給の均衡は仮定して良い。ただし、「均衡の取れた成長経路」という長期の均衡がもたらされるかどうかは確認する必要がある。
      • 他方、需要と供給のモデルを構築している場合は、需給の均衡の安定性を仮定して済ますことはできず、それを示さねばならない。
    • 他に考えるべき問題としては、均衡の唯一性、循環的安定性といった安定性の種類、など。
  • 「経済学者は経済が常に均衡状態にあると仮定している」という批判をどう考えるべきか?
    • 経済学者が必然的に何らかの短期の均衡を仮定せねばならないことを考えると、そうした批判は表現として適切ではない。ただ、それらの仮定が意味の無いものとなっていることも間々あるので、その点ではそうした批判にもメリットはある。
      • 例えば、仮に人々の信念や計画が不安定だと分かっているのに、その超短期における安定性を仮定してモデルを構築しても、モデルはどこかで間違えることになる。それは、人々の信念や計画の急激な変化の影響を無視しているためである。それに対処するためには、人々の信念や計画のランダムな変化を仮定し、その確率過程を仮定する、といった対策が必要となる。
  • 結論:「均衡」は経済学における唯一無二の統一原理ではない
    • それは「経済的関係を描写した方程式で、定義により正しいわけではない」。
    • 均衡の仮定に関する論議には大いに意味がある。
      • 例えばルーカス批判では価格調整が速やかであることと需給均衡の安定性を仮定していたが、マンキュー、ウッドフォード、カルボらの提示した粘着的価格調整理論ではその仮定が否定された。そこから導出されたニューケインジアンモデルは学界の主流となり、ルーカス好みの均衡の仮定に基づくRBCモデルを脇に追いやった。
      • つまり、ある「均衡」に関する不均衡動学のモデル化は、極めて重要なものとなり得る。ただし、そうしたモデル化の際には別の種類の「均衡」を仮定する必要があるが。