すばらしい新世界・その2

一昨日のエントリでは、IMFカンファレンスを受けてブランシャールが示した今後のマクロ経済政策ないし経済学についての指針を紹介したが、今日はそれに対する2人の経済学者の反応を紹介してみる。


まずは、コロンビア大学バーナードカレッジ教授のペリー・メーリング*1が書いたINET(=ソロスの新経済理論研究所)ブログ記事からの引用(Economist's View経由)。

To me, the importance of this conference comes simply from the very public assertion that the pre-crisis consensus was wrong--okay, “not right”--and that we need now to be working toward something else. The significant point is that there is no consensus on what that something else should be. Some people, perhaps even most economists currently practicing, will work from the pre-crisis consensus, tweaking this or that.
But there is room also for more fundamental departures, for new approaches that have not yet been tried. Unless I mistake him, I think Blanchard would agree. (He apparently asked conference participants to be provocative.)
Otmar Issing, for example, offers a Nobel for anyone who provides a proper theoretical treatment that combines credit and money, financial quantities and financial prices. That is what practicing central banker economists like himself have always been looking for, and not found yet, certainly not in the pre-crisis academic consensus.
A decade ago, Olivier Blanchard wrote an influential paper, “What do we know about macroeconomics that Fisher and Wicksell did not?”, in which he put forth a kind of Whig history of the progress of macroeconomic thinking up to 2000. Compared to today, suggested Blanchard, macroeconomics pre-1940 looks like “a period where confusion reigned, for lack of an integrated framework”.
According to his account, the inter-temporal general equilibrium model (DSGE) provided that missing framework. Now, ten years later, we can see that framework in a different light, as the origin also of the “beauty” that economists mistook for truth, and apparently still do, if only by force of intellectual habit. The important takeaway is that the crisis has opened the ground for alternative frameworks as well as tweaks of the existing one.
To be provocative, let me put it this way. We are living today in a period not unlike the inter-war period, a period where confusion reigns for lack of an integrated framework. We are living in a period of exploration and experimentation, not only in the policy world but also in the world of ideas. Let the new economic thinking begin.


(拙訳)
私に言わせれば、今回のコンファレンスの重要性は、単純に、危機前のコンセンサスは間違っていた――あるいは「正しくなかった」――ので何か別の方向性を目指すべき、という非常に一般的な主張に存している。問題なのは、その別の方向性が何かについてコンセンサスが存在しないことである。ある人々――ひょっとすると現職の経済学者のほとんどかもしれないが――は、あくまでも危機前のコンセンサスを土台にして、そのあちらこちらを微調整しながら進もうとしている。


しかし、そこから根本的に決別し、今まで試されたことの無い新たな手法を目指す、という選択肢もある。私が誤解していない限り、ブランシャールもその見方に賛成すると思う(彼はコンファレンスの参加者にもっと挑発的になるように頼んでいた)。


たとえばオットマール・イッシングは、信用と貨幣、金融の量と価格を結び付ける適切な理論的枠組みを提供するならば、誰にでもノーベル賞を与えよう、と言っている。それは彼のような実務的な中央銀行の経済学者が常に探し求めてきたものであり、未だに見つけていない――少なくとも危機前の学界のコンセンサスには見当たらない――ものである。


10年前、オリビエ・ブランシャールは「マクロ経済学についてフィッシャーとヴィクセルが知らなかったことの何を我々は知っているか?」という影響力のある論文を書いた。そこで彼は、2000年までのマクロ経済思想の進化をいわばホイッグ史観的にまとめてみせた。ブランシャールはその中で、1940年以前のマクロ経済学は、今日に比べると、「統合した枠組みの欠如のために混乱を極めていた時期」のように見える、と評した。


彼の解説によれば、異時点間一般均衡モデル(DSGE)が、その欠落していた枠組みを提供した。しかし10年後の今、その枠組みは、我々の目に以前とは違ったものに映る。それもまた、経済学者が「美」を真実と間違える元になったのであり、しかも習慣の力のせいか、彼らは未だにその間違いを続けているようだ。重要な教訓は、危機が、既に存在する枠組みの微調整だけではなく、まったく別の枠組みを考える基盤を提供したことだ。


挑発的な言い方をするならば、今日の我々は、戦間期と似たような状況、統合した枠組みの欠如のために混乱を極めている状況に置かれているのである。我々は、政策面だけではなく思想面においても、探検と実験の時代にいるのである。新たな経済思想の幕開けを見守ろうではないか。


これに対しEconomist's ViewのMark Thomaは、今のところ、これまでの枠組みを補修するという方向性が主流のようだし、Thoma自身もその方向性で研究を進めている、とコメントしている*2



ブランシャールの指針に対するもう一人の経済学者の反応として、アーノルド・クリングのEconlogブログエントリの内容を簡単にまとめてみる。

  • (「金融政策はインフレ率の安定だけではなく、生産と金融の安定を目標リストに加えるべきである。また、マクロプルーデンシャルの方策を手段のリストに加えるべきである」という点について)30年間の金融政策の研究を捨て去るつもりか? サムナーが悲鳴を上げそう*3
  • (「市場と国家の役割についての昔からの論争において、振り子は――少なくとも少しは――国家の方に振れた」という点について)一般市民とエリート層では話が違う。
    • 一般市民は当初はそうだったかもしれないが、実際の政策が施行されるに連れて変わっていった。今や一般市民は、市場に対しても国家に対しても不信感を抱いていると思う。そしてそれは理解できる話だ。
    • エリート層について言えば、市場派も反市場派もそれぞれの殻に閉じこもる傾向が強まったように思われる。IMFのコンファレンスでは反市場派の方が声が大きかったので、振り子がそちらに振れたように見えたのではないか?
  • (「危機は、マクロ経済学に関連した歪みが、それまで思われていたよりも数多く存在することを明らかにした。・・・規制とエージェンシー理論を規制当局に適用することが重要となる。行動経済学とその従兄弟である行動ファイナンスも同じく重要である」という点について)確かにそうだ。「エージェンシー理論の規制当局への適用」というのは、いかにもMITっぽい公共選択論。
  • ブランシャールが知識の問題が存在しないことを暗黙のうちに常に前提としているように見えるのが気になる。彼は、官僚は市場が間違えたところを見つけて直せるかのように書いている。実務経験を軽視しているかのようだ。
  • (「ポール・ローマーは、一連の金融規制を適用してそのまま変更を加えなければ、市場はやがてそれを迂回する方法を見い出し、10年後にはまた金融危機を迎えることになる、と主張した」という点について)これについて話を広げた人はいなかったのだろうか。以前自分は似たようなことを書いた。
  • (「プラグマティズムは極めて重要である。例えばAndrew Shengが中国の適応的な成長モデルを論じた際も、それが基調的なテーマとなった。我々は物事を慎重に試し、それがどのように機能するか確認していかなくてはならない」という点について)これは一見無害のように見えるが、Jonah Goldbergが、プラグマティズム(彼の次の著作のテーマでもある)は政治に適用されると危険、と警告している。統治する者が統治される者を社会実験のモルモットにすることになる、というわけだ。企業が市場で実験を行う場合は、失敗した場合の責任は通常はその企業が被る。しかし政府が他人の金で実験を行う場合はそうはならない。政府資金による「代替エネルギー」の実験は何十年も続いているが、成果は出ていない。デビッド・ヘンダーソンがEconlogで引用したJohn Goodmanの記事も参照*4


さらにクリングは、コンファレンスへの個人的な違和感として、以下の基本的な仮定に対する疑念が呈されなかったことを挙げている。

  1. マクロ経済というものが存在して、政策手段でそれがコントロールできるということ。それに対しクリングは、かねてより、「専門化と取引の持続可能なパターン(Patterns of Sustainable Specialization and Trade)」の変化・発展によって経済事象を説明しようとしている。
  2. 官僚が金融市場を上手く規制するのに十分な知識を保有していること。悪い出来事を市場の欠陥のせいにするのではなく、市場の弱点と政策の思わぬ副作用との相互作用と見做すべきではないか。また、いかなる政策を提言するにせよ、思わぬ副作用の可能性を無視してはならない。

*1:邦訳された著書には「金融工学者フィッシャー・ブラック」がある。

*2:一方のまったく別の枠組みを考える例としては、ここで紹介したような吉川洋氏と青木正直氏の研究が挙げられるだろう。なお、このように学問の転換期という状況下で新規パラダイムの展開を図る研究についても、(同エントリに頂いたコメントで提示されているような)被引用数にこだわる従来型の評価方法がリアルタイムの物差しとして有効なのかどうかについては、一考の余地があるように思われる。

*3:金融システム安定はともかく、サムナーは名目GDP目標を唱えているので、ここでクリングがサムナーを引き合いに出すのは少し見当違いのようにも思われる。実際同エントリのコメント欄でサムナーは、「私はインフレ目標に反対しているので、悲鳴は上げないでおこう」とコメントしている(同時に、1929年に学んだように金融政策では金融市場安定は達成できないので、GSEの廃止や最低20%の頭金の要求や預金保険の上限を2万5000ドルにするといった規制面での変更が必要、ともコメントしている)。

*4:そこでGoodmanは、医療費抑制のための実験として各種パイロット・プログラムを実施しようとしているオバマ政権のやり方を批判している。なお、ヘンダーソンはその記事を紹介したブログエントリで、日本において通産省の反対を押し切った民間企業が成功した例(難色を示した通産省を説得してウエスタン・エレクトリックからトランジスタの製造技術を導入したソニーと、1950年代の国民車生産の圧力と1960年代の企業統合の動きに抵抗した自動車産業)を取り上げた自分の以前(1983/8/8)のフォーチューン記事「The Myth of MITI」も引用している。