DSGEの存続ではなく覇権が問題

一昨日紹介したブランシャールの小論を受けてクルーグマンがDSGEに駄目出ししたが、そのエントリを読んでか読まずかサイモン・レン−ルイスがクルーグマンを間接的に批判した*1

Olivier Blanchard, former director of the IMF’s research department, has written a short critical piece about DSGE models. Forget all the econblog reaction that essentially says he has been too kind: DSGE completely dominates academic macroeconomics, and there is no way that all these academics are going to suddenly decide this research programme is a waste of time. (I happen to think Blanchard is right that it isn’t a waste of time.) What is at issue is not the existence of DSGE models, but their hegemony.
(拙訳)
IMFの前調査局長であるオリビエ・ブランシャールが、DSGEモデルについて短い批判的な論文を書いた。彼が手緩い、と事実上言っている経済ブログの反応は全部無視して良い。DSGEは学界のマクロ経済学を完全に牛耳っており、そうした学者たちがある日突然、この研究プログラムは時間の無駄だ、という決定を行うことはあり得ない(それは時間の無駄では無い、と言うブランシャールは正しいと私も思う)。問題になっているのはDSGEモデルの存続ではなく、覇権なのである。


その上で以下のように書き、刃を学術誌の編集者に向けた。

One of Blanchard’s recommendations is that DSGE “has to become less imperialistic. Or, perhaps more fairly, the profession (and again, this is a note to the editors of the major journals) must realize that different model types are needed for different tasks.” The most important part of that sentence is the bit in brackets. He talks about a distinction between fully microfounded models and ‘policy models’. The latter used to be called Structural Econometric Models (SEMs), and they are the type of model that Lucas and Sargent famously attacked.
These SEMs have survived as the core model used in many important policy institutions (except for the Bank of England) for good reason, but DSGE trained academics have followed Lucas and Sargent as viewing these as not ‘proper macroeconomics’. Their reasoning is simply wrong, as I discuss here. As Blanchard notes, it is the editors of top journals that need to realise this, and stop insisting that all aggregate models have to be microfounded. The moment they allow space for eclecticism, then academics will be able to choose which methods they use.
(拙訳)
ブランシャールが提唱することの一つは、DSGEモデルは「帝国主義色を薄めるべきである。あるいは、もっと正確に言うならば、学者たちは(この文もまた、主要ジャーナルの編集者に対する覚書である)異なる課題については異なる種類のモデルが必要になることを認識すべきである。」 この文章の最も重要な箇所は、括弧で囲まれた部分である。彼は完全にミクロ的基礎付けされたモデルと「政策モデル」との区別について述べている。後者はかつて構造計量経済モデル(SEMs)と呼ばれたものであり、ルーカスとサージェントの有名な攻撃を受けた種類のモデルである。
それらSEMsは、(イングランド銀行を除く)多くの重要な政策機関で使われるコアモデルとして生き延びてきたが、それには十分な理由があった。しかしDSGEの訓練を受けた学者たちは、それらは「適切なマクロ経済学」ではないというルーカスやサージェントの見方を受け継いだ。ここで論じたように、彼らの考え方は単に間違っている。ブランシャールが言うように、トップジャーナルの編集者たちこそそのことを認識し、すべての集計モデルはミクロ的基礎付けを持たなくてはならない、というこだわりを捨てるべきなのである。折衷主義*2にスペースを割くようになれば、学者たちも使う手法が選択できるようになる。


なお、ブランシャールは主要ジャーナルの編集者に対するもう一つの覚書で、以下のように述べている。

Note to journal editors: Not every discussion of a new mechanism should be required to come with a complete general equilibrium closure
(拙訳)
学術誌の編集者たちへの覚書:新たなメカニズムの議論はすべて完全な一般均衡の枠組みの中で論じられなければならない、というわけではない

これは消費の文脈の中で語られているのだが、レン−ルイスはこのコメントを、今日のマクロ経済学の問題の核心を突いたもの、と評している。そして、以下の点を指摘している*3

  • もちろんDSGEモデル研究者が単純なオイラー方程式から離れることも良くあるが、彼らのやり方(経験則消費者や習慣)は、現実主義よりは分析上の都合を反映しているように思われる。
  • 今日のマクロ経済学に時に欠けていると思われるのは、(消費のような)部分均衡分析を研究している人と、一般均衡モデルの研究者とのつながりである。トップジャーナルの編集者は後者を好んでおり、それは前者への評価がそれほど高くないことを意味している。レン−ルイスに言わせれば、このことは既に高くついている。
    • 消費にとって信用の利用可能性の変化が重要であることを示した強力な実証結果をきちんと受け止めなかったことが、マクロ経済学金融危機への反応を適切にモデル化できなかったことの主因だった。
    • それに同意しないとしても、大半のDSGEモデルが予備的貯蓄行動を一切取り入れなかったことは、DSGEモデルが「適切なモデル化」を独占している状況で正しいことだったとは思われない。

*1:両者も参加したDSGEを巡る以前の論争についてはこちらを参照。

*2:レン−ルイスが推奨する折衷主義についてはここ参照。

*3:この点に関するレン−ルイスの議論はここ参照。