均衡を決めるのは歴史か、それとも期待か?

Rajiv Sethiが、ンゴジ・オコンジョ・イウェアラ(Ngozi Okonjo-Iweala)世銀専務理事が「サハラ以南こそ次のBRICSだ」とぶち上げた*1講演を取っ掛かりに、表題の件について考察を巡らしている
History Versus Expectations in Sub-Saharan Africa」と題したそのブログエントリで彼は、クルーグマンの「History Versus Expectations」という1991年の論文から以下の文章を引用している。

Once one has multiple equilibria, however, there is an obvious question: which equilibrium actually gets established? Although few have emphasized this point, there is a broad division into two camps... On one side is the belief that the choice among multiple equilibria is essentially resolved by history: that past events set the preconditions that drive the economy to one or another steady state... On the other side, however, is the view that the key determinant of choice of equilibrium is expectations: that there is a decisive element of self-fulfilling prophecy...
The distinction between history and expectations as determinants of the eventual outcome is an important one. Both a world in which history matters and a world of self-fulfilling expectations are different from the standard competitive view of the world, but they are also significantly different from each other. Obviously, also, there must be cases in which both are relevant. Yet in the recent theoretical literature models have tended to be structured in such a way that either history or expectations matter, but not both... in the real world, we would expect there to be circumstances in which initial conditions determine the outcome, and others in which expectations may be decisive. But what are these circumstances?
(拙訳)
複数均衡が存在するならば、次の疑問が出てくるのは明らかだ:どの均衡が実際に達成されるのか? これについてはあまり指摘されていないが、大まかに言って見方が二つに分かれる。・・・一つの見方は、複数均衡における選択は基本的に歴史が解決する、というものだ。過去の出来事によって培われた事前条件が、経済をどちらかの定常状態に追いやる、というわけだ。・・・もう一つの見方は、均衡の選択を決定する鍵となるのは期待だ、というものだ。つまり、自己実現的予言という要素が厳然として存在する、というわけだ。・・・
歴史と期待のどちらが最終結果を決める要因なのか、という識別は、重要なものだ。歴史が重きをなす世界、自己実現的予言の世界、そのいずれも標準的な競争的世界観とは異なっているが、その二つの世界観同士も大いに異なっている。また、両者が同時に当てはまるケースが存在することも明らかであろう。しかし、最近の理論研究では、歴史と期待のどちらかしか効かず、両者が同時に効くことが無いような形でモデルが構築される傾向がある。・・・現実世界では、初期条件が結果を左右する状況がある半面、期待が結果を左右する状況もある、と我々は考える。その場合の状況とはどういったものだろうか?


この疑問を追究するためにクルーグマンは、収穫一定の財Cと収穫逓増の財Xから成る2財モデルを提示している。
そのモデルでは、Xの生産に従事する労働者が少ないと、X産業はC産業に比べて高い賃金を確保することができない。そのため人がX産業からC産業に流出し、最終的には全員がC産業で働く、という均衡に落ち着く。
一方、ある水準以上の数の労働者がX産業に集まると、X産業の賃金がC産業を上回り、それがますますX産業に人を惹き付ける、という好循環が回りだす。その場合の最終的な均衡は、全員がX産業で働く、ということになる。
閾値となるX産業の従事者数をLX*とすると、上述の複数均衡は以下の図で表される。

ここで横軸LXはX産業の従事者数、縦軸wはX産業の(C産業を基準とした)賃金である。


クルーグマンはさらに、労働者の移動コストを取り込んでこのモデルを動学化している*2。その場合の一つの解は以下の図で表される。

この解では、やはり初期のX産業の従事者数で最終的な均衡が決まり、最初の静学的な解と同様の結果となる。


しかし、動学化されたモデルにはもう一つの解がある。それが下図である。

この場合、初期のX産業の従事者数がLXC≦LX*≦LXXの範囲にある場合、最終的にどちらの均衡に達するかは人々の期待によって決まることになる。クルーグマンはこの範囲を「オーバーラップ(overlap)」と呼んでいる*3


Sethiは7/25エントリで、イースタリーらの最近の研究が示唆するようなアフリカ経済に対する運命論的な見方に反発する姿勢を示したが、今回のエントリでも、上記のクルーグマンの論考を援用しながら、改めてそうした見方に疑問を呈している。


一方、Econospeakのピーター・ドーマン(Peter Dorman)は、このSethiエントリを受けて、原論文を読んでいないと断りつつも、クルーグマンの複数均衡の分析は単純に過ぎるのではないか、と批判している。具体的には、X産業とC産業の相互作用を考えた場合、問題は手に負えないほど複雑化し、とても期待などというものでは解きほぐせなくなる、と彼は言う。従って、結局は歴史が物を言う、というのがドーマンの見解である(同時に、均衡分析はやはり経済分析に適していない、とも述べている*4)。
ちなみにドーマンは、以下のような2次導関数の行列において、収穫逓増は対角の項に表れるが、相互作用は非対角の項がゼロでないこととして表れる、と指摘している。

2X/∂LX2 2C/∂LC∂LX
2X/∂LX∂LC 2C/∂LC2

*1:cf. これ

*2:その動学化に際しては、松山公紀氏の研究を参照している。

*3:追記:深尾京司氏Roland Bénabouは、1993年のコメント論文で、クルーグマンのこの動学モデルの均衡解が正しくないことを示している。彼らによると、労働者全員がどちらかの産業に従事するようになるという点は合っているものの、その場合のqはゼロになると言う。即ち、クルーグマンの各均衡点EX、ECから横軸に下ろした垂線の足が実際の均衡点になるとのことである。また、overlapの範囲も、クルーグマンが計算したものよりも狭くなるとの由。

*4:cf. 小生の昨日エントリ