クルーグマンのマイナス均衡実質金利論:日本の経済学者の受け止め方

クルーグマンが「It's Baaack」論文で日本の流動性の罠の原因を人口減少に求めていた、という点を、最近uncorrelatedさんが頻りに強調されている(例:こちらのブログエントリやこちらのツイート)。そこには、日本の論者がその点をスルーしてきた、という含意が込められているようである。だが実際には、その点も日本の経済学者によって議論されてきた。例えば、均衡実質金利を実際に測定した鎌田康一郎氏の論文*1では以下のように記されている:

ただし、ここでの結果は、必ずしもクルーグマンの議論をサポートする材料とはなっていないようである。Krugman[1998]では、負の均衡実質金利の原因を高齢化と労働人口の減少に求めている。仮にその議論が正しいとすれば、負の均衡実質金利は持続的な現象となるはずである。しかし、本稿の結果をみると、均衡実質金利の推計値は、その多くが、2000年代初頭に正値に転じている。このように、負の均衡実質金利は一時的な現象であった可能性を否定できない。また、たとえ均衡実質金利が負であったとしても、せいぜいマイナス1%であり、Krugman[1998](p.181)が想定するマイナス3-3.75%といった大幅なマイナス値と比べれば、その程度は大きくなかったと考えられる17)
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17)
Krugman[1998]への反論としては。吉川他[2000]に収録されている若月三喜雄氏のコメント、吉川洋氏の発言(コンファレンス議事録)、深尾光洋氏によるコラム等を参照されたい。

ここの注17で参照されている「吉川他[2000]」とは、本ブログの2008/8/5エントリで参考文献として挙げた「吉川洋+通商産業研究所編集委員会[編著][2000]「マクロ経済政策の課題と争点」、東洋経済新報社」である。そのエントリでは人口減少の話は軽く触れるに留めたが、改めて同書から「若月三喜雄氏のコメント」と「吉川洋氏の発言」を引用すると以下の通りとなる*2


●若月三喜雄氏のコメント

・・・均衡実質金利がマイナスである要因のひとつとして、クルーグマン教授はdemography(人口構成)、または人口が将来減少していくことを挙げている。この議論に関して、ひとつのモデルとして新古典派の成長理論をもとにした試算では、実質均衡金利がゼロ、あるいはマイナスになるためには、人口の増加率が大きなネガティブ、具体的にはマイナス2.5%以上でなくてはならないという結果がでてくる*3。現実の日本の人口成長率はこれほど大きなマイナスではなく、日本経済のいまの均衡実質金利は大きなマイナスという前提に疑問がある。1)
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1)
日本銀行金融研究所の試算では、
 r=ρ+n+x(r;実質金利、ρ:時間選好率、n:人口増加率、x:技術進歩率)
実証研究やOECDによるとρ=0.01程度、x=0.015程度。これをもとにrがマイナスになるには、nが△0.025(年率2.5%の人口減少)よりも大きな減少率が必要となり非現実的。


吉川洋氏の発言

日本のこれからの10年、20年のポテンシャルの成長率の問題は均衡の実質利子率が負になるという論点とも関係する。マイナス要因としては労働人口の減少・高齢化が強調されている。しかし、過去の日本の成長会計の結果をみると、労働投入の寄与は経済成長のせいぜい10分の1ぐらいである。したがって労働人口の減少を決定的なマイナス要因と考えることは誤りである。


一方、クルーグマンは、こうした見方に関連して

私の単純化したモデルにおいて、マイナスの実質自然金利は潜在成長力がマイナスのときのみ起こると展開した。これは必要条件だが、つねに正しいわけではない。本来の潜在成長力が高くても、期待される成長率が低ければ私のモデルが成り立つ。

と述べており、人口減少原因論があくまでも議論を明確化するためのモデル上の便宜的な仮定であることを匂わせている。


ただし、そこでの期待成長率への悲観的な見解について若月氏は、

経済企画庁サーベイにおいて、最近の期待成長率はだいたい1.5%前後であり、それが長期にわたってネガティブという前提はあてはまらないだろう。

と反論している。

*1:平成21年9月30日発行の「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」/第1巻『マクロ経済と産業構造』の第12章。

*2:「深尾光洋氏によるコラム」は、人口減少とは別の観点からマイナスの均衡実質金利に疑問を投げ掛けているので、引用は省略。具体的には、実質金利のマイナス幅が大きいと単に品物を保有している在庫投資だけで大きな収益が得られるため、実質金利がゼロまたはわずかにマイナスの水準では投資の実質金利弾力性が非常に高くなる。従って、均衡実質金利が実際に大きなマイナスになることはない、との由。これに対しクルーグマンは、コールレートの均衡実質金利が-3%だとすると、長期金利の均衡実質金利は-1.2%であり、その水準では在庫投資を大幅に増やす効果は無い、と反論している。

*3:ちなみにuncorrelatedさんが前述のブログエントリでリンクした平田渉氏の2012年論文では、
「ベースライン・シナリオでは、人口成長率が−3%程度で、IT 化等に伴い資本減耗率が高まりかつ技術進歩率が低迷するシナリオでは、人口成長率が−2%程度で、それぞれ自然利子率がゼロになるとの結果が得られた」
とあり、それとほぼ整合的な結果と言える。ただし同論文では
「わが国の人口動態予測(図表1)において、総人口の成長率のボトムが−1%程度、生産年齢人口成長率のボトムが−2%程度であることを踏まえると、来る人口減少局面において、自然利子率が少なくともゼロ近傍までは低下する可能性は相応に存在すると考えられる」
と記述しており、その数字を若月氏のように非現実的と一蹴はしていない。なお同論文ではクルーグマンの主張について
「最近クルーグマンは、過剰債務問題が需要を抑制することを通じて、わが国経済の自然利子率を下押ししている可能性を示唆している(Eggertsson and Krugman [2011])。しかし、本来、クルーグマンは、本稿で取り上げているような少子高齢化から自然利子率が負になっている可能性を強調していた(Krugman [1998])。」
と述べている。