ローマーの二重基準?

16日エントリでは、ポール・ローマーの数学もどき批判について

ローマーはまた、ソローとケンブリッジ資本論争を繰り広げたジョーン・ロビンソン(1956)も、学界政治のために数学もどきを用いた、と断罪している。

と記した際に、「これについてはEconospeak界隈から異論が出そうだが」と注記した。案の定、ピーター・ドーマンが19日付けのEconospeakエントリで以下のように書いている

I was alerted to this aspect of Romer’s original paper by his sideswipes at Joan Robinson and the UK faction of the Cambridge capital controversy. Now, it happens that I take a middle position on this dispute: I think they were both in some sense wrong. The British Cantabrigians, along with their Italian comrades, were arguing from a model whose equilibrium assumption (equal rates of profit in all processes) is meaningless, in a mathiness sense, in an intertemporal context. (If you think Lucas rational expectations is a stretch, Sraffa rational expectations is even crazier.) But the MITers were also defending an aggregation of physical capital and its equivalence to a sum of financial capital that was also shown to be mathy—see here and here. Romer’s attack on Robinson was signaling that a double standard was at work.
(拙訳)
私は、ローマーが原論文で、序でのようにジョーン・ロビンソンならびにケンブリッジ資本論争の英国派を批判したことに注目した。実は私はこの論争については中間の立場を取っており、両派ともにある意味において間違っていたと考えている。英国のケンブリッジ派およびそのイタリアの同志は、均衡に関する前提(全過程で利潤率が等しい)が数学的側面ならびに異時点間の文脈で意味をなさないモデルで議論していた。(ルーカスの合理的期待が行き過ぎだと思うならば、スラッファの合理的期待はさらに気違いじみている。)しかしMIT派も、総計ベースの物的資本、ならびにそれが金融資本の総計と等価であることを擁護していたが、その数学は怪しいことが示されている――ここここ参照。ローマーのロビンソンへの攻撃には、二重基準が働いているという信号が灯っている。


ドーマンは続けて以下のように書いている。

In fact, economics is a veritable empire of mathiness. I agree with Romer that the use of algebraic entities that have no meaningful correspondence to real world objects and deliberate obfuscation through the use of words with multiple meanings are sins against science, but that is just the beginning. Here are two more, one theoretical, the other empirical:
(拙訳)
実際のところ、経済学は押しも押されぬ数学もどきの帝国である。現実世界に意味のある対応物が存在しない数学上の主体を用いることや、多義語を使ってわざと分かりにくくすることが科学に対する罪であるという点についてはローマーに同意するが、それは手始めに過ぎない。以下にもう2項目を挙げる。一つは理論、一つは実証に関するものである。


そこで彼が挙げるのが、次の2点である。

  1. 均衡のメカニズム
    • 多くの経済理論は、均衡条件と均衡の比較静学という形を取っている。時間を追って展開する出来事を描写する理論でさえ、初期の均衡状態から次の均衡状態に対して張られた経路である横断という形を取っている。その際に、現実世界で原則として観測可能なメカニズムやプロセス、主体が自らの行動を見直して別のマクロ的帰結をもたらすようなメカニズムやプロセスが欠落していることが多い。そうしたメカニズム抜きでは、均衡という概念は無意味となり、こちらの均衡からあちらの均衡へ移行することもできない。この病の一つの症状は、均衡条件と恒等式、等号と恒等記号が区別できないことである。その違いは、前者には因果関係のプロセスが適用されるのに対し、後者には適用されないことにある。従って、もしあなたの理論世界からプロセスが一切欠落しているならば、≡において=に付け加わった小さな線分が何を意味するか皆目見当がつかないだろう*1
  2. 帰無仮説の有意性検定の誤用
    • AがBを引き起こすという理論をあなたが持っているとしよう。このことを直接的に観測できない(あるいはしようとしない)としても、もしこのことが真ならば2つの測定可能な変数xとyの間に関係性が生じるはずだ、ということは推論できる。そこであなたはxとyに関する研究を行い、有意性検定を行って、xとyが無関係だという帰無仮説を棄却できると結論する。そして、もしあなたが大部分の実証経済学者の同類ならば、AとBに関する自分の理論を「検定」したところ、それと「整合的な」実証結果を得た、と宣言するだろう。しかしちょっと待ってほしい! 別の理論で、xとyに関する予想を生み出す半面、あなたの理論とは相容れないものも存在するのではないか。もしxとyの話が、そうした別の理論のどれか一つに対して、あなたの理論に対するもより多くの支持を与えるならば、実証結果はあなたが打ち出した解釈とは逆のことを示していることになる。実際には、帰無仮説の棄却は、数多くの代替仮説の候補のうちどれが正しいかについては何も言ってくれない*2。良心的な実証研究者ならば、あらゆる理論候補をテーブルに晒して、それらの理論に我々が与えるべき相対的な信用度が、新たな実証結果によってどのように変化するかを体系的な手法で検討するだろう。まったく説得力の無い理論が何十年も経済学で存続している理由は、足切り水準の低い含意――多くの説得力が高かったり低かったりする理論で示される含意――が有意性検定を生き延び、その検定結果が研究者のお好みの特定の理論と「整合的」だった、と宣言されることにある。これも数学もどきの一種である。不誠実で完全に非科学的な中核を、多くの洒落た計量経済学技法でくるんだものとなっている。


ドーマンは以下のようにエントリを結んでいる。

So I have mixed feelings about the Romer meltdown. I definitely understand where he’s coming from and how frustrating it is to see ideologues deploying math to obfuscate rather than clarify. But the problem is much wider and deeper than he seems to realize.
(拙訳)
ということで、ローマーの怒りについて私は複雑な感情を抱いている。彼の怒りの原因、および、イデオローグが明確化のためではなく曖昧化のために数学を展開しているのを見ることがいかに腹立たしいかは、完全に理解できる。しかし彼が認識していると思われるよりは、問題は遥かに広範で深刻なのだ。