「デフレの罠」への素朴な疑問・続き

昨日BSU論文ないしそれを受けたブラード論文への素朴な疑問を記したが、今日は、その話題の続きとして、さらに3つの論点を挙げてみる。

自然利子率上昇策とBSU論文の矛盾

昨日のエントリでは、フィッシャー式における実質金利は自然利子率であろう、と論じた。しかし、そう考えると、自然利子率が上昇した場合、BSUないしブラード論文におけるテイラー式とフィッシャー式の2つの交点は、原点からより遠ざかることになる(下図)。ということは、もし彼らが論じるように日本が低位均衡に陥っているならば、一般には望ましいこととされている自然利子率上昇は、デフレをますます悪化させることになる。



学界における低位均衡の不安定性の議論

昨日のエントリには、マッカラムや岩本康志氏の日本銀行金融研究所における論文を紹介するコメントを頂いた。マッカラムの論文は「ゼロ金利制約に関する誤解(2006)」、岩本氏の論文は「「デフレの罠」脱却のための金融財政政策のシナリオ(2004)」であるが、前者は後者の研究なども踏まえた上で、BSU論文の低位均衡に疑問を投げ掛けている。その疑問の内容は(当然ながら)小生のような大雑把なものではなく、均衡に関する学界の知見に基づくものである。具体的には、Evans=Honkapohja「Learning and Expectations in Macroeconomics(2001)」で論じられた学習可能性がBSUの低位均衡には無い、と指摘している。ちなみに、マッカラムがこの件について詳細に論じた論文は「Inflation Targeting and the Liquidity Trap(2002*1)」である。

また、ブラード論文でも、BSUの低位均衡の不安定性について触れられている(彼はBSUのデフレの罠に関する話題を7つのテーマに分類して論じているが、そのうちの一つがその不安定性に関するものである)。そこで彼が引用しているのが、Stefano Eusepi「Learnability and monetary policy: A global perspective(2007)」である。その論文でEusepiは、学習可能性だけで複数均衡が完全に否定されるわけではない、と上記のマッカラムを批判した上で、政策の選択(具体的にはBackward-looking Taylor rulesを挙げている)によって均衡を望ましいものに絞ることができる、と論じている。
ブラードはさらに、前述のEvans=Honkapohjaがこの問題について論じた論文、George Evans, Eran Guse, and Seppo Honkapohja「Liquidity Traps, Learning, and Stagnation(2008*2)」も紹介している。Evans=Guse=Honkapohjaは、低位均衡を通り越して経済がデフレスパイラルに落ちていく可能性を論じ*3、それを避けるための手段として積極的な財政金融政策を提唱している。



高位均衡と低位均衡が一致(ないし近接)している可能性?

ブラード論文では、昨日のエントリで紹介したとおり、非線形のテイラー式をやや恣意的にパラメータを定めた指数関数として置いてる。これをもう少し実証的に導くことはできないだろうか? そう考えて試しに日本の政策金利とCPI上昇率の散布図を描き、4次曲線の近似を当てはめてみたのが下図である*4


そして、この4次曲線の「テイラー式」とフィッシャー式を併せて描画したのが下図である。

ここでは自然利子率は0.73%としたが、その場合の接点は、(π、R)=(-0.25、0.47)ただ一つとなる*5。この場合、高位均衡も低位均衡もなく、デフレが唯一の均衡となる。これは、(今まであまり論じられてこなかった)日本の現状描写の一つの可能性ではなかろうか?*6 もしこの可能性が成り立っているとすると、日銀はデフレ目標を置いている、というサムナーの見解もあながち間違いとは言えなくなる気がする。

*1:ただしリンク先のWPは2001年時点のもの。

*2:ただしリンク先のWPは2007年時点のもの。

*3:この話の前段となっているのはEvans=Honkapohjaの2005年の論文「Policy interaction, expectations and the liquidity trap(ただしリンク先のWPは2003年時点のもの)。

*4:期間は1980年1月〜2010年6月。データソースはこのエントリに同じ。

*5:実際には、推計した4次曲線ではπが高まっても金利がそれほど高くならない局面(曲線が屈曲している部分)があるので、フィッシャー式はそこでまた曲線と交点を持つ。その屈曲部分においては、傾きが1になる点がもう2つある(∵3次方程式0.0204x3-0.2319x2+0.5314x+0.1502=0の解は3つ存在する)。それぞれ、(π、R)=(3.6、5.6)と(8.0、8.3)である。この屈曲部分は現在の議論に関係しないのでここでは無視する。

*6:もう一つの可能性は、そもそも自然利子率が低すぎて、テイラー式とフィッシャー式の交点が存在しない、というものである。その場合は、BSUの枠組みで論じることがそもそも無意味となるだろう。
[8/15追記]http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100802/question_on_BSU#c1281855782でWillyさんにご指摘いただいたが、接点が一つの場合においても、その接点を除き金利が自然利子率を上回っているので、常にデフレ方向の圧力が働き、その接点は安定的ではない。