「デフレの罠」への素朴な疑問

先週末にはサムナーとクルーグマンの論争が経済ブロゴスフィアで話題になったが、そのきっかけは、サムナーセントルイス連銀のブラード総裁の論文を批判したことにあった。今日のエントリでは、その論文の前半部を足掛かりに、サムナーとはまた異なる観点から、デフレの罠が本当に問題かどうかを少し考えてみたい。


その論文「Seven Faces of "The Peril"」でブラードは、Jess Benhabib、Stephanie Schmitt-Grohé、Martín Uribeの3人による2001年の論文「The Perils of Taylor Rules」(以降BSU論文)を敷衍し、いわゆる「デフレの罠(deflationary trap)」の危険性とその回避方法について論じている。


論文の第一節「The "peril"」では、BSU論文に基づき、政策金利をある種のテイラールールに則って定めた場合、通常の均衡のほかに、デフレが定着してしまうような低位均衡が出現することを図を用いて示している。
具体的には、以下のような非線形のテイラールールに金利が従うと想定したグラフを、日米の実データと合わせて描画している。
  R = A×exp(Bπ)
ここでRは名目金利、πはインフレ率、AとBはパラメータである。ブラードはAを0.005015、Bを2.75と置いている*1


ブラードはまた、実質金利rが0.5%という仮定の下で、フィッシャー式
  R = r + π
に対応する名目金利も同時に描画している。上記のテイラー式とこのフィッシャー式から、金利とインフレ率に関する均衡点を求めることができる。


両式を描画したブラードの金利とインフレ率の関係図を再現すると、以下のようになる。

ここで両式の交点は2つ存在する。一つは(π, R)=(2.3, 2.8)であり、もう一つは(-0.5, 0.001)である。後者の交点がデフレの罠に相当することになる。


なお、上図の金利名目金利ベースであるが、これを実質金利ベースで描画してみると以下のようになる。

この時の2つの交点は、(π, r)=(2.3, 0.5)ならびに(-0.5, 0.501)である。


この図を眺めていると、以下のことに気付く。
フィッシャー式に対応する実質金利は、0.5%で一定なので、均衡実質金利ないし自然利子率r*と考えられる。一方、テイラー式に対応する実質金利は、実際に家計や企業が実際に感受する実質金利と考えられる。
そう考えると、πが-0.5%より大きく2.3%より小さい場合には、実質金利が自然利子率の0.5%を下回っているので、インフレ率は高まり、(π, r)=(2.3, 0.5)の均衡点に向かって収束していくだろう。また、πが2.3%を超えると、実質金利が自然利子率を上回るので、今度はインフレ率が低下し、やはり(2.3, 0.5)の均衡点に向けて収束するだろう。一方、πが-0.5%を下回ると、実質金利が自然利子率を上回り、デフレがどんどん悪化していくだろう。
いずれのケースでも、デフレの罠の交点である(-0.5, 0.501)に収束することはなく、そちらの交点は均衡点としては不安定であるように思われる。


ところが、BSU論文では、むしろインフレ率と金利の高い右側の交点が不安定で、左側のデフレの罠の方が安定した均衡点とされている(下図)。

これはなぜか、と考えてBSU論文の該当箇所を良く読んでみると、モデルの定式化に関して以下のことに気付く。

  • 家計の効用関数を将来に亘って最大化する際、実質金利rを時間割引率として用いている。
  • 一方、金融資産からの収益率は、テイラールールなどのπの関数であるR=R(π)であるとしている。
  • 効用最大化問題を予算制約条件やNPG条件に従って解いて、以下の結果を得ている:
    • Rがr+πを上回った時にはインフレ率は上昇する
    • Rがr+πを下回った時インフレ率は低下する

つまり、BSU論文では、金融資産の収益率は政策金利に等しいので、政策金利を上げれば金融資産からの収益が高まることになる。一方で実質金利rは、その政策金利とは独立に定まっている*2。それを効用関数の時間割引率に用いているので、家計の消費と貯蓄の選好に関与する金利は、いくら政策金利を上げ下げしても影響を受けないことになる。
このBSU論文の設定では、政策金利が家計の時間割引率に比べて相対的に高まると、家計が金融収益で潤う半面、貯蓄へのインセンティブは以前と変化しないので、消費バブル状態になってインフレ率が高まっていくものと思われる。一方、政策金利が相対的に低下すると、貯蓄超過・消費過小となり、デフレ状態に向かっていくものと思われる。


このように、BSU論文による考察と、自然利子率という概念を明確に考慮した考察とでは、均衡への収束に関して正反対の結果が得られる。どちらが現実をより正しく捉えているかについては、一考の余地があると言えるだろう。

*1:ブラードがRもπも%単位で扱っていることに注意。ちなみに、上式をインフレ率πで微分すると
  dR/dπ = A×B×exp(Bπ) = B×R
となる。これは1%のインフレ率の変化に対し、(B×R)%の金利変更で対応することを意味する。Rが1/Bを上回ると、これは、インフレ率πの変化よりも大きく金利Rを変化させることになり、いわゆるテイラー原理を意味する。逆に、Rが1/Bを下回ると、金利の変化幅はインフレ率の変化幅を下回ることになり、金利が低水準にあるために政策変更余地が限られている状況を意味する。ブラードの数値例では、その境界となるRは0.36%であり、対応するインフレ率πは1.56%である。

*2:これはむしろ、上述の自然利子率r*に相当するようにも思われる。