一昨日のエントリの脚注では、学習行動に関する研究のサーベイ論文として、日本銀行の武藤一郎氏の「学習行動を導入した最近の金融政策ルール分析−経済構造に関する知識が不完全な下での期待形成と政策運営−」にリンクした*1。同論文はこの分野の研究の内容を概観する上で非常に勉強になったが、その中で小生が特に興味深いと思ったのは、流動性の罠の発生メカニズムについて新たな仮説を提示したブラードとIn-Koo Choとの共著論文「Escapist Policy Rules」の紹介(4.3.2節[pp.34-35])であった。以下では、武藤氏の説明をそのまま引用する形で彼らの論文の内容を紹介してみる。
武藤氏の紹介によると、ブラード=Cho論文での流動性の罠は、escape dynamics と呼ばれる動学経路により実現される。ここでescape dynamics とは、経済が均衡近傍で変動している過程で、周期的にその過程から逸脱(escape)してしまうダイナミクスであり、人々の学習方法を含む、幾つかの条件を満たした場合にのみ発生することが明らかにされている、とのことである。
ブラード=Cho論文において流動性の罠が発生する条件は、以下の3つだと言う。
- 中央銀行が目標インフレ率を公表していない上、その値(π*)を一定水準としてではなく、幅のあるレンジとして持つこと(π*∈[π*L, π*H]*2)
- 大きな外生ショックが生じること
- 民間主体が経済構造の変化(中央銀行による政策反応度の変更)の可能性を念頭に置いて、直近のデータを重視したconstant gain learning による学習を行っていること
それらの条件が満たされた場合、彼らの論文における流動性の罠の発生メカニズムは、次のようになる。
流動性の罠の発生メカニズムは、図8により説明出来る。中央銀行が当初、目標インフレ率を目標レンジの中心値(π*M)に設定し、その値に基づいてテイラー・ルールを採用しているとしよう。このとき、経済の均衡はπ*Mに基づくテイラー・ルールとフィッシャー方程式の交点で決るため、インフレ率と名目金利のデータは図のデータ群Xで観測される。
ここで、経済にマイナスの大きな外生ショックが生じ、インフレ率が低下したとしよう。中央銀行が目標インフレ率を公表していないため、民間主体は、このインフレ率の大幅な低下の原因の少なくとも一部が、中央銀行の目標インフレ率の下方シフトによるものと考える可能性があり、その場合、民間主体の目標インフレ率の推計値は下方にシフトし、期待インフレ率は低下する。このとき、中央銀行が真の目標値を据え置き、名目金利を据え置くと、実質金利が上昇し、GDP ギャップが低下してしまう。テイラー・ルールに基づく政策を続けるとすれば、こうした事態を回避するために、中央銀行は、真の目標インフレ率を低下させる必要が生じる。中央銀行は、一定レンジ(π*∈[π*L, π*H])の中では、目標インフレ率の水準に関して無差別であるため、真の目標インフレ率を低下させる(π*M→π*L)。
このようなメカニズムが続くことにより、実際のインフレ率と中央銀行の目標インフレ率は徐々に低下していく。このため、観測されるインフレ率と名目金利は、フィッシャー方程式に沿ってデータ群Xからデータ群Yへと移行する。このとき、民間が推計する政策ルールの傾きは緩やかになり、民間主体は、中央銀行がインフレ率の変動に対してアグレッシブな政策対応を行わないと考えるようになる。このため、インフレ期待の不安定化により実際のインフレ率が不安定化する。このような状況で、民間の目標インフレ率の推計値が更に下がるような事態が発生すれば、デフレ期待が長引き、それに対して中央銀行は名目金利を引き下げていくが、最終的にはゼロ金利制約に直面することになってしまう。ゼロ金利制約に直面すると、インフレ率の低下に対して、中央銀行は名目金利を低下させることが出来ず、テイラー・プリンシプルを満たせない。この場合、E-stability が満たされないので、期待が合理的期待から乖離すると、それを元に戻すメカニズムが働かなくなってしまう。これが、Bullard and Cho の指摘する流動性の罠のメカニズムである。
そして、このメカニズムによって、経済が流動性の罠に陥る可能性があるとすれば、中央銀行がそれを防ぐためには、理論的には3つの政策対応が考えられる、として、以下の3政策が挙げられている。
- 中央銀行が目標インフレ率を明示的な水準として持つことを示し、実際にインフレ率が変動しても、後追い的な目標値の変更を行わないことを明らかにすること
- 民間主体に対し、政策ルールの形状・パラメータに関する情報提供(政策の透明性向上)を行ない、政策ルールの反応度に関する民間主体のミス・パーセプションを削減すること
- 名目金利の低下余地が十分に残されている段階で、中央銀行が政策ルールのインフレ反応度を大きく設定し、民間主体のインフレ期待の低下に対して大幅に名目金利を低下させることである。
その上で武藤氏は、この節を以下の言葉で結んでいる。
そのような政策対応により、中央銀行は、物価安定の達成に対して強い意志を持っていることを民間主体に示すことが出来、それを民間主体が学習することで、このメカニズムによる流動性の罠を防ぐことが出来ると考えられる。
以上の武藤氏によるブラード=Cho論文の紹介は、皮肉なことに、そのまま日銀の失敗を的確に描写した記述になっているように思われる*3。
ただ、さらに皮肉なことに、先般話題になったブラードの「Seven Faces of "The Peril"」では、この自分の論文についてまったく触れていない。今は地区連銀総裁という公職に就いていること、および当該論文がパブリッシュされていないことから言及を控えたのかもしれないが、こうした興味深い切り口が、同著者のあれだけ話題になった論文を通じて共有されなかったことは、少し勿体無かったような気もする。
*1:[2013/4/11]リンク先修正(旧リンク先=http://www.boj.or.jp/type/ronbun/ron/wps/data/wp04j04.pdf)。
*2:武藤論文ではπ*∋[π*L, π*H]と記述されていたが、記号の向きが逆と思われたので、ここでは修正してある。以下同様。
*3:日本の他の論文では、例えば岩本康志氏が、「Bullard and Cho (2002)は適応的学習がおこなわれる場合,名目金利とインフレ率が大きく低下して,それが持続するescape dynamics が存在することを示し,それが日本の現状を説明できるのではないかと推測している」と紹介している。