ケインズのフィッシャー批判の矛盾?

昨日紹介した論文では、商品によって割引率が異なることを論証していた。これは今までの経済理論の前提を覆す話、とのことだったが、既にケインズの一般理論の第17章では、彼が自己利率と呼んだものは商品ごとに違うことをほぼ自明としている。山形さん訳から該当箇所を引用すると:

ここから、商品がちがえばその利率*1が同じであるべき理由はないことになります——小麦利率と銅利率は同じでなくてもいいはずです。スポット物と先物契約の関係は、市場価格を見ると、商品ごとにずいぶんちがうことで悪名高いのです。これから見るように、これこそが求めているヒントにつながります。というのも、こうした自己利率(とでも呼びましょう)のうち最大のものがすべてを牛耳ることになるかもしれないのですから(なぜかというと、資本的資産が新たに生産されるためには、限界効率がそうした自己利率の最大のもの以上でなくてはならないからです)。そして、お金の利率こそが最大のものになるべき理由があるのです(それは、これから見るように、他の資産の自己利率を引き下げるように働くいくつかの力が、お金では作用しないからです)。

即ち昨日の論文は、ある意味でケインズ経済学の第17章の考察の再発見に過ぎない、という見方も出来そうである。


ちなみにDavid Glasnerは、ハイエク=スラッファ論争を扱った共著論文を最近上梓したが、その紹介エントリで以下のようなことを書いている。

Another interesting (at least to us) point in our paper is that Keynes who, as editor of the Economic Journal, asked Sraffa to review Prices and Production, borrowed Sraffa’s own-rate terminology in chapter 17 of the General Theory, but, instead of following Sraffa’s analysis and arguing that there is no natural rate of interest, Keynes proceeded to derive, using (without acknowledgment) a generalized version of Fisher’s argument of 1896, a unique relationship between commodity own rates, adjusted for expected price changes, and net service yields, such that the expected net returns on all assets would be equalized. From this, Keynes did not conclude, as had Sraffa, that there is no natural rate of interest. Rather, he made a very different argument: that the natural rate of interest is a useless concept, because there are many natural rates each corresponding to a different the level of income and employment, a consideration that Hayek, and presumably Fisher, had avoided by assuming full intertemporal equilibrium. But Keynes never disputed that for any given level of income and employment, there would be a unique real rate to which all commodity own rates had to correspond. Thus, Keynes turned Sraffa’s analysis on its head. And the final point of interest is that even though Keynes, in chapter 17, presented essentially the same analysis of own rates, though in more general terms, that Fisher had presented 40 years earlier, Keynes in chapter 13 explicitly rejected Fisher’s distinction between the real and nominal rates of interest. Go figure.


(拙訳)
我々の論文でもう一つ(少なくとも我々にとって)興味深い点は、エコノミック・ジャーナルの編集者としてスラッファに[ハイエクの]「価格と生産」の書評を依頼したケインズが、一般理論の第17章でスラッファの自己利率という用語を借用しつつも、自然利子率など存在しないというスラッファの分析と主張を踏襲する代わりに、フィッシャーの1896年の議論の一般化したバージョンを(謝辞抜きで)用いて、予想される価格変化で調整した商品の自己利率と、サービスの正味利回りとの間の特有の関係を導出したことにある。それは即ち、すべての資産の予想リターンは等しい、という関係である。そこからケインズは、スラッファのように自己利子率など存在しないと結論付けることはせずに、むしろまったく別の議論を展開した。所得と雇用のそれぞれの水準に対応して無数の自然利子率が存在するのだから、自然利子率などは役に立たない概念である。ハイエクは、そしておそらくフィッシャーも、完全な異時点間の均衡を仮定することにより、その問題を回避した。しかしケインズは、いかなる所与の所得と雇用の水準に対しても、すべての商品の自己利率が対応するべき唯一の実質金利が存在することに疑いを挟まなかった。こうしてケインズは、スラッファの議論を逆さに引っ繰り返したわけだ。そして最後の興味深い点は、ケインズが、より一般化した形ながらフィッシャーが40年前に提唱したものと基本的に同じ自己利率の分析を17章で展開しているのに、11章*2ではフィッシャーの実質金利名目金利の区別をあからさまに否定している点である。訳わかめ。

この少し前のエントリでGlasnerは、「一般理論でのフィッシャーに対するケインズの分裂質的な扱いに気付いたのは僕が最初かな?(Am I the first person to have noticed Keynes’s schizophrenic treatment of Fisher in the General Theory?)」とまで書いている。


これについてはコメント欄でRitwikというコメンターが以下のように反論している。

David

I take Keynes’s use of Fisher equation to be consistent because it seems to me that he’s saying :

1) Given a nominal rate, one can always derive a real rate. Moreover, there is an arbitrage relation between own rates of interest AT a given point of time.

2) There is no consistent relationship between inflation and nominal rates ACROSS time that is independent of real rates i.e. money is not super-neutral.

So he accepts the Fisher equation *mechanistically* but refutes the monetarist paradox. This seems like a perfectly consistent set of views to hold.

Also, I think his addition of commodity yields to the analysis of own rates of interest is critical. I’d always thought it was strange that Keynes tried so hard to establish money in terms of a commodity when he had earlier accepted and appreciated more creditist conceptions of it (like that of Mitchel Innes, e.g.). But some recent discussions made me realise that he was trying to establish the critical *numeraire* properties of money and derive a theory of liquidity premium from there, and for this it was important for him to cover the standard commodity theory of money.


(拙訳)
デビッド:
僕はケインズのフィッシャー式の使い方は一貫していると思う。というのは、僕が見るに彼の言わんとしていることは:

  1. 名目金利が与えられれば、実質金利は常に導出できる。また、ある一時点においては、自己利子率間には裁定関係が働く。
  2. 時系列的には、インフレ率と名目金利との間には実質金利と独立した一貫した関係は存在しない。つまり、貨幣は超中立的ではない。

つまり、彼は機械論的にはフィッシャー式を受け入れているが、マネタリストパラドックスは拒絶しているわけだ。それは見解としては完全に一貫しているように思われる。


また、自己利子率の分析に彼が商品利回りを加えたことは非常に重要だと思う。それまでは(例えばMitchel Innesのような)信用概念の貨幣論を受け入れて評価していたケインズが、ここで熱心に商品との関係から貨幣論を確立しようとしたことを僕はずっと奇妙に感じていた。最近の議論で僕が認識したのは、彼は貨幣の価値基準財としての重要な特性を確立しようとしていて、そこから流動性プレミアム理論を導出しようとしていた、ということだ。そのため、標準的な商品貨幣論をカバーしておくことが彼にとっては大事なことだったのだ。


昨日の論文で言えば、ウガンダでは肉や砂糖やマトケの自己利率が高いため、上のRitwikコメントの第一項のいわゆる裁定関係が働いてそれに需要が集中した、ということになろう。そのため、自己利率ではそれらの商品に劣後する貨幣を、貧困層の人々はあまり欲せず、貯蓄不足が生じた。対照的に、日本などでは貨幣の自己利率が高いため、貨幣に需要が集中し、過剰貯蓄とデフレ不況が生じた。それがまさにケインズが17章で扱った課題である*3


ファイナンス理論に喩えれば、17章のケインズは、裁定によってすべての資産のリスク調整後のリターンは等しくなるというCAPM*4に相当する理論を展開した。その上で、その裁定への障害要因として流動性プレミアムを挙げた。


その裁定の話は、Glasnerが17章と矛盾していると評した11章のフィッシャー批判においても、ケインズは17章と同様に展開している。再び山形さん訳から該当箇所を引用すると:

お金の価値変化というのが・・・予想されていれば、既存の財の価格はそれに応じて調整され、お金を保有したり財を保有したりするメリットは、またもや均等化されてしまい、お金を保有している人は、融資期間中に予想される貸したお金の価値変化を相殺するような、金利変化によって儲けたり泣いたりするには手遅れとなってしまいます。

この点からすると、11章と17章はむしろ一貫しているように見える。


また、11章を再びファイナンス理論に引き直して解釈するならば、ここでケインズは、いわば投資のカットオフレートの話*5を展開した。その上で、その際に予想インフレ率が果たす役割について論じ、そうした投資理論抜きで実質金利名目金利の区別を論じることの無意味さを説いた。その点においても、別に17章と矛盾しているようには思われない。

*1:原文の誤字を訂正。

*2:原文は13章としているがおそらく誤り。

*3:cf. このエントリ

*4:cf. ここ

*5:cf. ここ