フリードマンのリフレ論

昨日紹介した名目支出を巡る論争において、ベックワースは、サムナーのvoxeu論説触れていた。そのvoxeu論説でサムナーは、フリードマンの日本に関する記事「Rx for Japan: Back to the Future」(1997年12月17日 Wall Street Journal)を引用している。同記事は以前Hicksianさんが紹介したほか、小生も池田信夫氏のブログへのコメントで言及したことがある。

この記事は12年前のものであるが、サムナーが引用しているように、幸か不幸か今日も現在的価値を失っていない。そこで、改めて以下に拙訳で紹介してみる。

日銀による10年にわたる不適切な金融政策は、現在の日本経済の不安定な状態に大いに責任がある。その10年は、素晴らしい金融政策の時期の後に続いた。1973年、日銀は、インフレの加速的な上昇に対し、通貨の伸びを25%以上から10%近くにまで2年足らずの間に引き下げるという対策を取った。また日銀は、通貨の伸びをコントロールする明示的な政策を宣言した。


グラフが示すように、1年のラグを置いて名目支出の伸びは急速に減少し、さらにその1年後には、インフレ率も同様に20%以上から一桁に減少した。通貨の伸びはその後10年近く掛けて不均一な減少を続け、そして安定した。インフレ率も同じ動きを示し、最終的には年率3%以下に落ち着いた。1974年の短い不況の後は、実質経済成長は相当かつ適正な定常的な伸びに戻り、1977から1987年の平均は概ね4%であった。この時期は、黄金期であった。



バブル経済


1987年2月のルーブル会議で、集まった指導者たちはドルの為替相場を安定させることに合意した。日本は、その取り決めにより、ドルを買い、その過程で円を創出した。その結果生じた通貨の伸びの加速は高インフレを招き、当初は実質経済成長も高まった。最も顕著な結果は、「バブル経済」による土地、株式、その他の資産の価格高騰だった。日経平均は3年間に倍以上になった。


日銀は1990年に遅まきながら反応して、通貨の伸びを新政策の最初の年に13%から3%以下にまで落とし、2年目にはマイナスにまで落とした――対策は合っていたが、やり過ぎた。金融引き締めは驚くほど効果的だった。株式市場、および名目所得成長は、急落した。低インフレは1994年までに事実上のデフレに転じた。その後通貨の伸びは戻ったが、戦後最低の水準に留まった。


表は過去5年間の指標を、日本の黄金期であった10年前の5年間と比較している。数値上の変化は見た目ではそれほど大きくないが、健康な経済を病気にするには十分であった。

...良きにつけ、悪しきにつけ
年変化 黄金期 1982年2Q-1987年2Q 問題期 1992年2Q-1997年2Q*1
通貨a 8.2% 2.1%
所得b 5.0% 1.3%
物価c 1.7% 0.2%
生産d 3.3% 1.0%

a M2+CDの前年同期比
b 名目GDP
c GDPデフレータ
d 実質GDP
ソース: Hoover Analytics



通貨供給を増やせ


健全な経済の回復への最も確実な方法は、通貨の伸び率を増やし、金融引き締めから金融緩和に移ることだ。通貨の伸び率を黄金の1980年代のそれに近づけ、それと同時に今度はやり過ぎないように気をつけることである。金融と経済の改革が大いに必要とされているが、そうした金融政策はそれらの改革の非常な助けとなるだろう。


日銀の擁護者は、 「どうやって? 日銀は公定歩合を既に0.5%にまで下げた。通貨の量を増やすためにこれ以上何ができるのか?」と言うだろう。


その答は簡単だ。日銀は公開市場で国債を買うことができる。対価は通貨、もしくは日銀の当座預金だ。すなわち、経済学者がハイパワードマネーと呼ぶものである。そうした対価の大部分は商業銀行に支払われ、準備預金を増やし、貸し出しや公開市場買い付けによって負債を拡大することを可能にするだろう。たとえ銀行がそうしたことをしなくても、通貨供給は増加する。


日銀がその気になれば、どこまでも通貨供給を増加させることができる。高い通貨の伸びは、いつも通りの効果を発揮する。1年もすれば、経済はより速く拡大しているだろう。生産が伸び、それから少ししてインフレ率も適度に上昇するだろう。1980年代後半の環境に戻ることは、日本を再活性化させ、他のアジア諸国の助けにもなるだろう。


金利の誤謬


当初、高まった通貨の伸びは短期金利をさらに引き下げるだろう。しかしながら、景気が回復するに連れ、金利は上がりはじめるだろう。これは標準的なパターンであり、金利を見て金融政策を判断することがなぜとてもミスリーディングなのかを物語っている。一般に低金利は、日本のように金融引き締め気味であったことを示し、高金利は金融緩和気味であったことを示すのである。


3年のゼロ近い経済成長という近年の日本の経験は、それほど劇的でないにしても、米国の大収縮の不気味な再演である。FRBは、1929年から1933年に掛けて通貨供給量が1/3も減少することを見過ごした。これは最近の日銀が、通貨の伸びが低いかもしくはマイナスであることを許容したのとまったく同様である。米国の通貨面の崩落は日本より遥かに大きかったが、それが経済の崩落も遥かに深刻だった理由になっている。米国は通貨の伸びが元に戻ると共に回復したが、日本もそうなるであろう。


FRBは、低金利を金融緩和政策を採用している証とし、通貨供給量には決して言及しなかった。日銀総裁は、1997年6月27日の講演において、1995年に採用した「思い切った金融手段」が「金融緩和スタンス」の証であるかのように述べた。彼もまた、通貨供給量には言及しなかった。公定歩合で判断すれば、1.75%から0.5%までに切り下げられたので、思い切った手段と言えるだろう。半面、通貨の伸びで判断すれば、少なすぎ遅すぎた。それ以前の3年半の年率1.5%の伸びを、続く2年半に3.25%に上げたに過ぎない。


米国の大恐慌の経験の後、および、1970年代のインフレと金利上昇、1980年代のディスインフレ金利低下の後に、金融引き締めを高金利で、金融緩和を低金利で判断する誤謬は死に絶えたと私は思っていた。明らかに、古い誤謬は決して死なないようだ。

*1:元の表ではこの期間も1982年2Q-1987年2Qとしているのをここでは修正している。