名目論争

日本では最近リフレを巡る議論が久し振りに再燃したが、米国でもそれの写し絵のような議論が進行していた。


きっかけは、今月初めのデビッド・ベックワースによる以下の図。

これは、米国の名目国内最終需要の前年同期比のグラフだが、1960〜70年代は順調な伸びを示していたのに対し、80年代半ば以降は停滞し、最近の金融危機で大きく落ち込んでいる。ベックワースはこの図により、需要の名目値から経済を見ることの重要性を強調している。


また彼は、OECDの集計値ベースの名目GDPの伸びの推移も示しているが、以下の通り、上図とほぼ同様の推移を示している。


これらの図は、米経済ブログ界注目集めたとのことだ。当然のごとく、かねてから名目成長率を金融政策の目標に置くべき、と主張しているスコット・サムナーは非常に肯定的に反応し、エントリにも賛辞のコメントを寄せている。


一方、否定的な反応を示したのが、他ならぬクルーグマンである(ひさまつさん経由)。彼は、名目支出に注目すると金融政策で経済を改善できるように思えてしまうが、1998年の論文で彼自身が示したように、実際にはそれはできないのだ、と論じている。ただその際に、将来のインフレ期待に影響を及ぼすことができれば話が別だが、という但し書きも付け加えている。


サムナーベックワースは、このクルーグマンの否定論に反応し、いや、話は別ではない、現在の金融政策も将来の期待に影響を与えるのだ、と反論している。ベックワースは、クリンゴノミクスへの反論の際に推計したVARのグラフを再び持ち出し、実証的にもそのことが支持される、と主張している。

ちなみにベックワースは、この議論の実際の政策への含意について、以下のように述べている。

One way to think about this is to imagine what would have happened had the Fed set an explicit inflation target of say 3% in mid-2008 and promised it would do whatever was needed to keep actual inflation there. If such a policy had been adopted it is unlikely inflation expectations would have collapsed liked they did in late 2008, early 2009 as seen in the figure below (click on figure to enlarge):
And if inflationary expectations had not collapse then current nominal spending would have been far more stable. This is because if folks think that inflation will be permanently higher going forward they are more likely to spend their money today. That is, money demand will fall and velocity will pick up.
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So contrary to Krugman's claim, there is reason to believe the Fed could have prevented the great nominal spending crash of 2008-2009. The real question for me is why did the Fed allow inflationary expectations to fall so dramatically in late 2008, early 2009. My guess is they simply dropped the ball or there was too much pressure from inflationary hawks.


(拙訳)
この点について考える一つの方法は、FRBが2008年半ばに例えば3%といった明示的なインフレ目標を設定し、実際のインフレをそこに留めるために必要なあらゆる手段を取ると約束していた場合に、何が起きていたかを想像することだ。そうした政策が取られていたら、インフレ期待が2008年末から2009年初めに掛けて下図のように崩落していたとは考えにくい。


そしてインフレ期待が崩落していなかったとしたら、現在の名目支出は、今より遥かに安定していたであろう。というのは、インフレが将来も恒久的に昂進していく思えば、人々は今日お金を使うであろうからだ。即ち、貨幣需要は減少し、貨幣の流通速度は上昇する。
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ということで、クルーグマンの主張とは裏腹に、FRBが2008-2009年の名目支出の大きな落ち込みを防ぎ得たと信ずべき理由がある。私にとって本当の疑問は、なぜFRBが2008年末、2009年初めにおいて、あれほど劇的なインフレ期待の低下を許容したか、ということだ。私の推測するところでは、彼らは単にボールをファンブルしたか、もしくは、インフレタカ派からの圧力が強すぎたかだ。


また、Chartalistとの論争を早々に切り上げた*1Nick Roweもこの議論に参戦し、サムナーの反論(の2番目のポスト)をIS-LMの観点から解釈し直している。
サムナーは反論の中で、クルーグマンの考えについて「名目金利が0まで下がった状況でテイラールールから導かれる-6%の金利を実現するには、期待インフレ率を6%にする必要があるが、それは無理だ」ということ、と解釈している。そして、そのクルーグマンの悲観論は、金利と期待インフレ率にこだわりすぎているための誤謬で、名目成長率に焦点を当て、金利と期待インフレ率は後から付いて来るものと考えれば違った見方ができる、と主張している。名目金利が低いことが意味するのは、金融緩和が十分だということではない。むしろ将来の金融緩和が足りないために今後の名目成長が期待できず、そのために金利が低く留まっているのだ、というわけである。
Roweは、このサムナーの主張を、IS-LMの枠内で以下のように言い換えている。

  • 将来の成長が見込まれれば、将来の期待総需要曲線が右にシフトし、(将来の総供給曲線が垂直でない限り)将来の実質生産が増加する。これは、現在の消費の増加、および、現在の投資の利益率の上昇をもたらし、現在のIS曲線を右にシフトさせる。
  • IS曲線と生産の完全雇用水準における垂直線とが交わる点が、自然利子率と考えられる。従って、現在のIS曲線が右にシフトすれば、現時点の自然利子率は上昇する。人々は期待インフレ率の上昇による実質金利の低下に目を奪われがちであるが、このように将来の成長には自然利子率を上昇させる効果もあるのである*2

冒頭に書いたように、この論争は日本のリフレを巡る論争と相似の関係にあるように思われる。ただ、ベックワースもサムナーもRoweも日本ではあまり知られていないので、こうした“リフレ派”が海外でも声を上げているという認識が日本の経済学者の間ですら乏しいのは無理からぬところかもしれない。また、こうした論争で、リフレ派の教祖のはずのクルーグマンが、今や敵役を演じる格好になっている、というのは興味深いところである。

*1:個人的にはちと残念だったが。

*2:この点では、飯田泰之氏の「安定的な成長を遂げる経済」と「均衡実質利子率がある程度高い経済」は補完的なものである、という主張と通ずるものがあるように思われる。