新・貨幣国定主義

昨日のエントリで紹介したように、WCIブログの11/6エントリのコメント欄では、RoweとNeo-Chartalistたちの議論が交わされた。


そこから見えてきたNeo-Chartalistの主張を一枚の図で表すならば、以下が相応しいだろう。


これは、「新しい日本銀行─その機能と業務」の第9章「国庫金に関する業務」の図である。Neo-Chartalismの基本的な主張は、貨幣の創出の本質は上図に存しており、中央銀行の紙幣の発行や、国債の発行は、二次的な話に過ぎない、というものなのである。


その意味で、表券主義という訳語よりは、貨幣国定主義という訳語の方が、彼らの主張の核心を言い当てていると言えよう。



議論でNeo-Chartalist側の代表的論客となったスコット・フルワイラーは、紙幣について、次のように述べている*1

CURRENCY IS RELATIVELY UNIMPORTANT AND, AGAIN, SUPPLIED AT THE REQUEST OF THE NON-GOVT SECTOR VIA DEBITS TO RESERVE ACCOUNTS.
(拙訳)
紙幣*2というのは相対的には重要なものではなく、民間部門からの要求に応じて、準備預金からの引き落としという形で供給されるものに過ぎない。


また国債については、次のように述べている。

BOND SALES OR SOME OTHER METHOD OF PROVIDING INTEREST EARNING ACCOUNTS TO THE NON-GOVT SECTOR IS OPERATIONALLY NECESSARY IF A POSITIVE INTEREST RATE TARGET IS DESIRED.
(拙訳)
債券発行、もしくは民間部門に金利の付く口座を提供する他の何らかの手段は、金利を正に保つためのオペレーション面で必要であるに過ぎない。


ちなみに、Neo-chartalistの一人として紹介されているWarren Moslerの政策主張では、以下のようなことが述べられている。

I would cease all issuance of Treasury securities. Instead any deficit spending would
accumulate as excess reserve balances at the Fed. No public purpose is served by the
issuance of Treasury securities with a non convertible currency and floating exchange rate
policy. Issuing Treasury securities only serves to support the term structure of interest rates at higher levels than would be the case. And, as longer term rates are the realm of investment, higher term rates only serve to adversely distort the price structure of all goods and services.
(拙訳)
私はすべての国債の発行を停止したい。その代わり、財政赤字による支出は、すべてFRBの超過準備残高として蓄積されるものとする。不換紙幣と変動為替制のもとでは、国債の発行によって得るところは無い。国債の発行は、金利の期間構造を高止まりさせるのに役立つに過ぎない。そして、長期のターム物金利は投資に関係するので、より高いターム物金利は、すべての財やサービスの価格構造を歪める方向に働いてしまう。


つまり、極端な話、彼らにとっては、紙幣も国債も無くても良いものなのである。本質的な話は、政府の支出がそのまま民間の資産となることであり、紙幣や国債はその表現形態の一つに過ぎない。
フルワイラーは次のように述べている。

THE GOVT IS THE BY ACCOUNTING DEFINITION THE MONOPOLY SUPPLIER OF NET FINANCIAL ASSETS FOR THE NON-GOVT SECTOR. THESE NET FINANCIAL ASSETS ARE EQUAL TO THE SUM OF CURRENCY, RESERVE BALANCES, AND TREASURIES LESS CENTRAL BANK LOANS.
(拙訳)
政府は、会計の定義によって、民間部門に対する金融純資産の独占的供給者である。その金融純資産は、紙幣、準備預金、国債の合計から、中央銀行貸出を差し引いたものに等しい。


そして、彼によれば、経済面でその政府支出に上限を与えるのはあくまでも経済そのもののキャパシティであり、債務残高の対GDP倍率や国債金利といった指標は政治的な制約に過ぎない。

UNDER A NON-GOLD STANDARD-TYPE OF MONETARY SYSTEM, THERE IS NO OPERATIONAL, FINANCIAL, OR NOMINAL LIMIT TO THE GOVT’S ABILITY TO DO THIS. THERE ARE USUALLY POLITICAL LIMITS THAT ARE SELF-IMPOSED. AND THERE IS A “REAL” LIMIT IN THE SENSE OF ECONOMIC CAPACITY.
(拙訳)
金本位制の金融システムにおいては、政府のこうした能力に、オペレーション面、金融面、もしくは名目面での制約は存在しない。ただ、通常、自ら課した政治的な制約は存在する。また、経済のキャパシティという意味での「実物的」制約は存在する。


さらに、シニョリッジについては以下のように述べている。

AS SUCH, SEIGNIORAGE “PROFITS” ARE ECONOMICALLY UNIMPORTANT IN THAT THEY DO NOT ENABLE MORE SPENDING AND LESS OF THEM DOES NOT CONSTRAIN SPENDING. INSTEAD, SEIGNIORAGE IS SIMPLY THE ACCOUNTING RECORD OF REDUCED INTEREST ON THE NATIONAL DEBT AS CURRENCY IN CIRCULATION OR RESERVE BALANCES RISE RELATIVE TO INTEREST-BEARING TREASURIES HELD BY THE NON-GOVT SECTOR.
(拙訳)
ということで、シニョリッジによる利益というのは、経済的に重要ではない。というのは、それが支出の制約を押し広げたり、その減少が支出の制約を押し下げたりするわけではないからである。そうではなく、シニョリッジというのは、(民間が資産として保有している)政府負債に対する金利の減少の会計記録に過ぎない。それは、金利の付く国債の民間保有分に比べ、流通紙幣もしくは準備預金の額が相対的に大きくなったことにより生じる。


なお、国債の利払いについては次のようなことも述べている。

A KEY POINT IS THAT A DEFICIT “FINANCED” BY BOND SALES IS NOT LESS INFLATIONARY THAN ONE UNACCOMPANIED BY BOND SALES. IN FACT, THE BOND SALES ARE MORE INFLATIONARY GIVEN THE ADDITIONAL INTEREST PAYMENT TO THE NON-GOVT SECTOR.
(拙訳)
重要なポイントは、財政赤字を債券発行で「ファイナンスした」場合でも、債券発行を伴わない財政赤字に比べて、インフレ度が劣るわけではないことだ。実際のところ、民間部門に追加的に供与される利払いの存在を考えると、債券発行はむしろよりインフレ的と言える。


最後にフルワイラーは、要はインフレが危険水準になるまで政府支出を増やせ、ということか、というRoweの問い掛けに対し、まったくその通り、と答えている。


彼らの主張がどこまで正しいかは小生には判断がつかない。ただ、一般会計の概算要求で95兆円という過去最高の数字を叩きだし、国債金利の上昇をもたらしたとも言われる民主党政権は、期せずしてNeo-Chartalistの処方通りの政策を実施しているようにも見える。現在の日銀、およびその総裁を事実上選択した民主党の政権下では、金融面でのリフレ政策が実現する可能性は乏しいことを考えると、今の日本では彼らの主張が正しいことを祈るしか道が残されていないのかもしれない。

*1:コメントが大文字になっているのは、文中で引用したRoweのコメントに対する自分の応答を区別するためとの由。

*2:currencyという用語を使っているが、ここでは貨幣一般を指すのではなく、特に中央銀行券を指している。