ハイパーデフレと七人の侍

以前、ハイパーインフレの理論で良く使用されるケーガンの貨幣需要関数と合理的期待を組み合わせると、ハイパーインフレではなくハイパーデフレが生じてしまう、ということを岩本康志氏に拙ブログのコメント欄でご教示いただいたことがあった。

Cagan的な貨幣需要関数をそのまま使って,完全予見(合理的期待)を仮定すると,ハイパー「デフレ」が起こることが,Buiter, 1987, A Fiscal Theory of Hyperdeflation? Some Surprising Monetarist Arithmetic, Oxford Economic Papersに示されています。
そのため,Caganの貨幣需要関数を使ってハイパーインフレを議論するときは,適応的期待形成とするか(Blanshard-Fischserの教科書のように)*1,貨幣市場の調整を入れる(ローマーのように)かしないといけません。

2010-03-21 - himaginaryの日記


そのハイパーデフレのメカニズムは、小生の解釈によれば、「政府が債務をマネタイズする際、名目貨幣残高伸び率が縮小するものの、インフレがそれ以上に低下してくれるので、実質貨幣残高が増加し、シニョリッジが一定に保たれる」ということになる。


この状況を「七人の侍」の有名なシーンに喩えて説明すると、以下のような感じにになろうか*2

経済学者
おい、政府! この実質貨幣残高の増加を見てくれ。こりゃ、お前さんたちのシニョリッジだ。民間の連中は、自分たちの経済活動を停滞させてデフレにしてまで、お前さんたちにシニョリッジを提供しているんだ。だから名目貨幣伸び率が低下しているのに、お前さんたちは一定のシニョリッジを確保していられるんだ。連中にしてみれば精一杯なんだ、これが!
政府
分かった、もう喚くな。…このシニョリッジ、おろそかには使わぬぞ!


もちろん、政府と民間の間でこんな麗しい関係が成立することは、現実には考えにくい。しかし、政府がシニョリッジを得ることを所与の条件として実質貨幣残高を変数とするモデルに当てはめれば、このような解が出てきてしまう。


七人の侍においては、野武士を撃退するという至上目的があったからこそ、農民が我慢して侍側に白米を提供していた。もしそこで侍側が居直り強盗と化して、自ら野武士のような行動を取り、白米の強制的な徴発に乗り出せば、両者の間の麗しい関係は忽ち崩壊する。その場合、徴発に対抗して農民側も白米を出し惜しみし、農村内の白米の流通は減少するだろう。そうなると侍側はますます徴発を強化し、農民はますます出し惜しみして…、という悪循環が発生する。徴発をインフレ税によるシニョリッジ確保、白米を実質貨幣残高と考えれば、これはハイパーインフレの状況に他ならない。そう考えると、同じシニョリッジを得るという話でも、政府と民間の信頼関係によってハイパーデフレか、それともハイパーインフレか、という両極端の結果に分かれることになる*3


翻って現在の日本の状況を考えてみると、財政状況や債務状況は数字だけを見るとハイパーインフレが起きてもおかしくないほど悪化しているが、それでもデフレが継続している。もちろんこれは民間が政府にシニョリッジを提供するために経済活動を停滞させているわけではなく、あくまでも経済活動の停滞が先にあって、政府はむしろその経済を下支えするために財政支出を行っている、という構造になっている。その点は、上記のハイパーデフレの理論が描くところとは大きく違う点である。
しかし、その一方で、合理的期待が成立していると*4ハイパーインフレは起きない、という上記の理論の結果は示唆的である。現在の日本でハイパーインフレが起きずにデフレが継続している理由については様々に取り沙汰されているが、ハイパーインフレ/ハイパーデフレの理論を追究することが、あるいはその一つの手掛かりを提供してくれるのかもしれない。

*1:ただし、Alexandre Sokicの論文「The monetary model of hyperinflation and the adaptive expectations: limits of the association and model validity」によれば、Blanchard-Fischerの方法は不十分との由。期待形成の方法は本質ではなく、インフレの昂進と実質貨幣残高の調整との間のタイムラグが重要だと言う。
ちなみにこの3/21エントリの本文で小生が行ったハイパーインフレのシミュレーションでは、名目貨幣増加率を一定間隔で突発的に上昇させることにより、そうしたラグが生じている。

*2:参考文献:黒澤明と「七人の侍」 (朝日文庫)

*3:ここでは、定常的なインフレの下で提供可能な最大値を超えるシニョリッジが議論の前提となっていることに注意。

*4:Sokic流に言うと、インフレの昂進と実質貨幣残高の調整との時間差が無い場合、ということになる。