機関誌Regionの6月号にロバート・ホールのインタビューを掲載したミネアポリス連銀が、今度はトーマス・サージェントをインタビューした(Economist's View経由)。
以下はその概略。
現代経済学への攻撃について
- 攻撃の一部は、数学を忌避する馬鹿げた知的怠慢から来ている。モデルで扱う経済がもっと動学や不確実性や曖昧さを含んだものになるならば、数学はますます必要になる。それが現実だ。
- 経済学者は効率的市場仮説を当然視しているわけではない。1983年のハンセン=シングルトン論文を嚆矢として、資産価格モデルと現実のデータとの不整合については様々な指摘がなされ、研究が行われてきた。そうした資産価格モデルはニューケインジアン理論のIS曲線と密接に結びついているので、それらの研究は中央銀行の政策とも関連する話だ。また、中央銀行が資産市場でのバブルを把握する上でも、資産価格モデルが定量的に整備されたものであることが必要条件となる。
- 合理的期待は、政治信条を問わず、マクロ経済学者の政策分析における基礎的な前提であり続ける。昨春のサックスやスティグリッツによるPPIPの分析が良い例だ*1。また、経済学者は合理的期待をより洗練されたものにするための努力を続けている。
- リアルビジネスサイクルモデルやニューケインジアンモデルへの批判は、それらのモデルの目的を誤解している。それらは、市場が借り手と貸し手と滞りなく結びつける通常時のマクロ経済の変動を描写することを目的に構築されたものであり、金融危機や市場崩壊を前提にしてはいない*2。
- 金融危機は経済学者に不意打ちを食らわせた、という批判も誤り。例えば、Franklin AllenとDouglas Galeの「Understanding Financial Crises」は2007年に出版されている。
金融危機について
- 経済学者が金融危機について言えることは多々ある。AllenとGaleの本以外にも、お宅の総裁を長く務めたGary Sternの共著書「Too Big to Fail: The Hazards of Bank Bailouts」が好例。
2009年の財政刺激策について
- (シカゴトリビューンが2009/1/13に「私の見たところ、財政刺激策を支持する計算は、封筒の裏でできるような簡単なもので、過去60年間に我々がマクロ経済学の研究で学んだことを無視している」というサージェントのコメントを掲載したが、どのような計算を見たのか、という質問に対し)確かにそんなようなことを記者に言った。私が見たのは、友人のジョン・テイラーがメールで送ってきてくれたCEAの資料だ。それが2009年時点の計算としてはあまりに素朴なものであるという点でジョンと私の意見は一致した。それには1945年以降得られた経済学の知見が反映されていなかったのだ。おそらくその資料は、急いで作るように言われて作成されたもので、お役所仕事の基準から見れば結構なものだったのだろう。封筒の裏の計算は、出発点ないしベンチマークとしては良い。しかしそれが喧伝されすぎると困ったことになる。
欧州の継続的な失業について(米国もそうなる?)
- 欧州の高失業率に対する1980年代初めの説明は、需要不足と賃金の硬直性のため、というものだった。しかし、その説明では、失業の継続性を説明できなかった。
- ある理論は、欧州の手厚い失業保険と政府による仕事の保証に原因を求めた。しかしそれらの理論は、1950〜60年代にもそうした制度は存在したのに、当時の欧州の失業率は米国より低かったではないか、というクルーグマンらの反論を招いた。
- そこでLars Ljungqvistと私は、次のような説明を試みた。欧州の手厚い失業給付は高失業率の大きな要因となっているが、それがそのような悪影響をもたらすのは、個々の労働者を取り巻くミクロ経済環境が悪化した時だ、という説明だ。
- マクロ経済学者が大平穏期と呼ぶ時期に、個々の労働者が労働市場で経験する変動はむしろ悪化した、ということがミクロ経済学者の実証分析で報告されている。悪化が始まったのは1970年代後半だ。そうした悪化の要因の一つはいわゆるグローバリゼーションと呼ばれる一連の技術の変化であり、トーマス・フリードマンが「フラット化する世界」で描写したものだ。
- 1950〜60年代のようにミクロ経済環境が安定していた時期には、政府による仕事の保証により、セーフティネットが失業を低くする方向に働いた。しかし、ミクロ経済環境が不安定になると、同じセーフティネットが高失業率をもたらす。そうした分析の際に鍵となるのが、働いている間は労働者の人的資本は向上するが、失業期間中は劣化するという点だ。
- 我々の理論は、労働市場の摩擦を扱った各種理論と整合的である。また、高年齢の労働者ほど悪影響を受けるという実証結果とも整合的である。というのは、欧州で高年齢の労働者が受け取る失業保険は、最後に就いていた仕事の給料に連動するが、その給料は労働者の過去の人的資本を反映したものであり、現在の人的資本を反映したものではないからである。そうした仕組みにより、現在の減損した人的資本に基づいて給与を受け取るために働くよりは、過去の(今や陳腐化した)人的資本に基づいて失業保険を受け取った方が良い、というインセンティブがもたらされる。
- そう考えると、失業給付の期間を延長しようとする最近の米国の動きは、逆効果をもたらす恐れがある。
欧州と「不愉快な計算」
- (30年前のウォレスとの共著論文「不愉快なマネタリストの計算(Some Unpleasant Monetarist Arithmetic)」で指摘した金融政策と財政規律の問題が最近のユーロ危機に表れていると思うか、という質問に対し)ユーロを導入した人々は不愉快な計算のことを知っていたし、それを避けるために、過剰とも言えるほどの制度的な工夫を盛り込んだ。具体的には、債務のGDP比率と財政赤字のGDP比率という二重の規制がマーストリヒト条約には盛り込まれた。
- 問題の発端は、2000年代に、欧州連合の中心であるフランスとドイツの2ヶ国が、財政のルールを何年も連続して破ったことにある。もちろん、不愉快な計算で問題になるのは政府の基礎的赤字の現在価値であり、数年の赤字では無い。マーストリヒトの規制は過剰であり、現在価値ベースの財政均衡の十分条件であっても必要条件では無かった。従って、その時点では目くじらを立てるような話では無かった、とも言える。
- だが、今にして思えば、やはりその時点で目くじらを立てるべきだったのだ。というのは、その行為によってフランスとドイツは、他の小国に範を示して財政規律を守るように説教することができなくなった。それにより、ギリシャを初めとする周縁国は、確信犯的にルールを破り、ついには不愉快な計算の脅威を招く事態に至った。
- ECBの取り得る一つの手段は、「ギリシャ政府がユーロ建て国債を発行したいなら、どうぞご自由に。投資家がそれを買いたいなら、どうぞご自由に。ただし、その国債にはECBは一切責任を持ちません。投資リスクや、債務不履行や債務再編が発生した場合の問題は、すべて投資家の自己責任でお願いします。」と宣言することだ。それができない一つの理由は、2008年の金融危機後に、高利回りを求めて欧州の有力銀行がギリシャ国債などのユーロ建てのソブリン債を買い込んだことにある。そうした銀行に対する最後の貸し手はECBなので、ECBは頬被りができなくなった。
- 人為的な金本位制としてのユーロを維持するため、マーストリヒト条約は金融政策と財政政策の分離を求めた。もし金融当局がギリシャなどの財政を支援し始めれば、その分離は崩壊し、ユーロのそもそものコンセプトから遊離したことになる。ここでも、カレケン=ウォレスのモラルハザードの問題が顔を出す。
- もしフランスとドイツがマーストリヒトの財政ルールを遵守し続け、かつ、欧州の有力銀行がカレケン=ウォレスの教えを良く守って周縁国の国債に手を出していなければ、ECBはギリシャに対して強硬な態度を取ることができただろう。そうなれば、ECBは本気だということが他の周縁国にも理解され、その出来事はユーロをむしろ強化する方向に働いただろう。政治的な可能性はともかく、経済学的にはそうなる可能性があった。
- (もしそのような事態が予見されていたら、そもそもギリシャはユーロ建て国債を発行できなかったのではないか、というインタビュアーの問い掛けに対し)そこでまた我々は金融政策と財政政策の分離の問題に直面するわけだ。イタリアがユーロ参加を許された後に、その国債に大きなキャピタル・ゲインが発生した、ということがあった。果たしてそのキャピタル・ゲインは、イタリアが財政規律をきちんと守るようになる、という期待に基づくものだったのだろうか? それとも、いざと言う場合には他のユーロ参加国から救済されるようになる、という期待に基づくものだったのだろうか?
- この話は、2009年の米国の銀行のストレステストにも当てはまる。ストレステストに合格したということは、銀行のバランスシートが健全だということを意味していたのか? それとも、FRBがお墨付きを出したのだから、そのお墨付きを守るために、今後はFRBが最後の貸し手機能をそれらの銀行に対し十分に発揮する、ということを実は意味していたのか?
- こうした疑問に答えるのは難しい。しかし、こうした話をする際に、合理的期待を議論の前提に使ってきたことには注意しておくべきだろう。動学的で不確実な世界では、他の人々や機関がどう行動すると自分たちが思うかが、自分たちの行動の決定に当たって重要な役割を担うのだ。