地震学と経済学

8/6エントリのコメント欄で、小生は経済危機を地震に喩えたが、期せずして同様の比喩を用いたエントリをMark Thomaが書いている

彼の論旨は以下の通り。

  • 地震予知には多大の努力が払われたが、未だ成功していない。事後的なデータ解析では予兆があったことに気づくが、それによって次回の予測が可能になるわけではない。
  • しかし、それは科学やモデルが無価値であることを意味しない。モデルには2つの利用法がある。一つは世界の仕組みを理解することであり、もう一つは未来予測である。地震に関しては予測は不可能かもしれないが、仕組みの理解は可能。
  • 地震の仕組みを理解すれば、たとえその発生時期が正確に予知できなくても、発生した場合の損害を抑えるために建物の設計を変えることなどに適用できる。また、事後の損害を最小限に抑えることにも科学は役立つ。例えば、現代の人々は災害の後は疫病の伝染を防ぐため汚染された水の使用を避けるべきであることを知っているが、科学の無い時代はそうではなかった。
  • 経済危機も地震と同様に予測不可能。これには二つの見方があり、一つは、効率的市場仮説のように、本質的に予測不可能と考える見方。もう一つは、プレートの衝突による歪みの蓄積のように、危機が起きることは明確に予測できるが、いつ起きるかが分からない、という見方。
  • 歪みの蓄積という見方を取る場合、歪みの解放が小さな危機の連続によって起きるのか、それとも一度の大きな危機によって起きるのかも予測できない、という点も地震と共通している。また、短期の市場の清算を仮定する現在の経済モデルでは、歪みの蓄積を捉えるのに適していない、というツールの問題もある。
  • とはいえ、地震学と同様、経済モデルがまったく役に立たないわけではない。予測は不可能にしても、危機発生の仕組みを理解し、それを被害を最小限に抑えるのに役立てることができる。
  • 経済危機において、地震における建物の耐震設計に相当するのは、制度や規制によって危機発生時の金融部門や経済全体の被害を抑えることである。今回の危機については、どんな建物でも耐え切れなかったという見方もあるが、自分(=Thoma)は前回の金融地震から長い時間が経ったために対策がおざなりになっていた、と考える。
  • 経済モデルは「耐震基準」を提供することが可能だったが、使われなかった。グリーンスパン等は、市場が自発的に耐震設計をするだろうと想定していた。従って、これについては、モデルの問題ではなく、その使い方の問題だった。
  • しかし、事前の準備がまったくなされなかったわけではない。また、自動安定化装置は不況の影響を抑える役割を果たした。ただ、もっと準備していればもっと被害は防げた(もっと建物の揺れを今より抑えられた)、ということは言える。
  • 経済モデルは、事前の対策よりも事後の対処で威力を発揮した。モデルに沿った金融政策や財政政策で、大恐慌の再発を防ぐことができた。これは地震で言えばライフラインや再建計画を適切に提供できたことに相当する。


ここで事後の対策に役に立ったとThomaが評価する経済モデルは主にケインジアンモデルを指していると思われるが、それを知ってか知らずか、Econlogのアーノルド・クリングがこのエントリを称賛している。そこで彼は、自動車産業というのは断層に近いところに建っていたおんぼろの建物だったんだね、と皮肉っている。