Freakomonicsのスティーブン・レヴィットがマクロ経済学について書いている。内容的にはつとに耳にする話であるが、よくまとまっているので以下に紹介する。
In a reasonably interesting Guardian article, Larry Elliott argues that the macroeconomists of yesteryear were superstars, but the current crop have lost sight of what macroeconomics is supposed to be about: describing the macroeconomy, not writing down fancy mathematical models.
(ガーディアン紙の比較的面白い記事で、ラリー・エリオットが、かつてのマクロ経済学者はスーパースターだったのに対し、今の学者はマクロ経済学が本来あるべき姿――華麗な数学モデルを構築するのではなく、マクロ経済を描写すること――を見失っていると論じている。)
The current crop of macroeconomists would argue that fancy mathematical models are the best way to understand the macroeconomy. That claim might even be proven correct in the long run, but I can’t say that I think it’s the most likely outcome.
(今のマクロ経済学者は、華麗な数学モデルがマクロ経済学を理解する最上の方法だと論じるだろう。いずれはその主張が正しいことが証明されるかもしれない。もっとも、自分にはそうなるとは思えないが。)
In my opinion, the fundamental problem is this: from a modern academic perspective, the sorts of skills that accompany having a good working knowledge of the macroeconomy are not easily measured by, and are not rewarded in, the current incentive schemes for economists. In microeconomics, at least there is an abundance of good data, so people who are good at measuring and describing things can succeed. But in macro there is not much data, so most of the rewards are for the mathematics, not the empirics.
(私の意見では、根本的な問題は次のことだ。現代の学問の在り方からすると、マクロ経済についての役に立つ知識を有していることに伴うスキルは、現在の経済学者に対するインセンティブの仕組みでは測定が難しいし、報われることもない。ミクロ経済学では、少なくとも良いデータが豊富にあるので、計測や描写に長けている人が成功できる。しかしマクロでは、データが少ないので、報酬は主に実証ではなく数学に対して提供される。)
The single easiest way to make a mark in a modern macro paper is to solve a problem that is really, really hard mathematically. Even if it is not that relevant to anything, it is seen as a sign that the author has “impressive skills,” which is enough to get a job — and even tenure sometimes — at top universities.
(現代のマクロ経済学の論文で成功を得る最も単純で簡単な方法は、数学的に非常に非常に難しい問題を解くことだ。もしそれが世の中のことにあまり関係なくても、著者が「目覚しいスキル」を持つ証と見なされ、一流大学で仕事を――あるいはテニュアすらも――得るのに十分な業績となる。)
You might think that macro forecasting would be an important part of what academic economists would do, but in practice there is almost nothing of that sort being done. That sort of thing is left for economists at places like the Federal Reserve or private banks to do. You might think that the models that most successfully explain economic patterns would rise to the top, but in the current regime, if they are not meticulously constructed from “micro foundations,” they aren’t allowed to be considered.
(マクロ経済予測は学界の経済学者の重要な仕事と考えている人もいるかもしれない。しかし実際には、彼らはそういったことをほとんどしていない。そうしたことはFRBや民間銀行といったところの経済学者の仕事なのだ。経済事象のパターンを最もうまく説明できるモデルが最も高く評価されると考えている人もいるかもしれない。しかし、現在の制度では、「ミクロの基礎」から厳密に組み上げられたものでないと、考慮の対象にしてもらえないのだ。)
これを受けて、マシュー・イグレシアスが「誰がミクロの基礎付けを必要としているのか?(Who Needs Microfoundations?)」というエントリを書いている。
そこで彼は、ミクロ経済学では幾多の成果を生み出したパラダイムが確立されたが、マクロ経済学ではそうしたパラダイムが確立しなかったため、マクロはミクロによって基礎付けされなければならないという恣意的とも言える決定がどこかでなされたのだろう、と推測している。そして、社会学的にはそれは成功した、と評している。というのは、そうした方法論上のコンセンサスの形成によって、経済学は他の社会学より一段上なのだ、という意識を経済学者が共有できるようになったからである。
しかし、そうして形成された方法論は不健全なものだった、とイグレシアスは断じる。たとえば化学の研究においては、すべての事象を、原子やそれ以下のレベルの事象に還元して把握する必要があるわけではない。同様に、心理学の研究では、脳の神経系の働きにまで遡って把握しなければならないわけではない。またミクロ経済学の研究においても、人々の心理にまで遡らねばならないという制約はない。そう考えると、マクロ経済学に対しミクロの基礎付けを課すのは過剰制約になっているのではないか、というのがイグレシアスの指摘である。