計量経済学者の手からマクロ経済学を取り戻すための革命

サイモン・レン−ルイスが、いわゆる反ケインズ革命をそう位置づけている

以下はそのブログエントリからの引用。

What the ‘macroeconomic ideas develop as a response to crises’ story leaves out is the rest of economics, and ideology. The Keynesian revolution (by which I mean macroeconomics after the second world war) can be seen as a methodological revolution. Models were informed by theory, but their equations were built to explain the data. Time series econometrics played an essential role. However this appeared to be different from how other areas of the discipline worked. In these other areas of economics, explaining behaviour in terms of optimisation by individual agents was all important. This created a tension, and a major divide within economics as a whole. Macro appeared quite different from micro.
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The New Classical revolution was in part a response to that tension. In methodological terms it was a counter revolution, trying to take macroeconomics away from the econometricians, and bring it back to something microeconomists could understand. Of course it could point to policy in the 1970s as justification, but I doubt that was the driving force. I also think it is difficult to fully understand the New Classical revolution, and the development of RBC models, without adding in some ideology.
(拙訳)
マクロ経済学の概念は経済危機への反応として発展する」というストーリーに欠落しているのは、経済学の他分野、およびイデオロギーである。ケインズ革命(ここでは第二次大戦後のマクロ経済学という意味でこの言葉を使う)は、方法論上の革命と見做すことができた。モデルは理論に基づいていたが、モデルの方程式はデータを説明するように組み立てられた。時系列の計量経済学が中心的な役割を果たした。しかしそういったやり方は、経済学の他の分野でのやり方とは違っているように思われた。経済学の他分野では、個々の主体による最適化という観点から行動を説明することこそが重要だった。そうした相違が緊張を生み、経済学全体の大きな溝を生むことにもつながった。マクロ経済学ミクロ経済学とまったくの別物のように思われた。
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新しい古典派の革命は、部分的にはその緊張の結果として生じた。方法論的な面から言えばそれは反革命であり、マクロ経済学計量経済学者の手から奪い取り、ミクロ経済学者が理解可能な形に戻そうとする動きであった。もちろん、そうした動きを1970年代の経済政策(の失敗)で正当化することはできようが、そうした政策の失敗がその動きの原動力になったとは思わない。また、新しい古典派の革命とリアルビジネスサイクル理論の発展を、イデオロギー抜きに完全に理解するのは難しい、と思う*1


上記引用部の冒頭で触れられている“「マクロ経済学の概念は経済危機への反応として発展する」というストーリー”は、Free ExchangeのM.C.K.ことMatthew Kleinが書いたマクロ経済学小史*2、および、それを受けたノアピニオン氏のエントリにおけるマクロ経済学史観を指している。レン−ルイスは、その史観によれば今般の経済危機に対応してマクロ経済学にまた根本的な修正が起こるはずだが、その動きは見られない――せいぜいDSGEに金融摩擦がいろいろ付け加えられたくらい――ではないか、と指摘している。


このエントリのコメント欄では、ノアピニオン氏とレン−ルイスの間に以下のようなやり取りが見られた。

Noah Smith 24 January 2013 21:25
Well, this still leaves my main question unanswered...Why aren't macroeconomists dissatisfied with our actual inability to tell which models work when (and thus which to use when)?

Mainly Macro 25 January 2013 03:31
Noah - I agree, but my point was that it was not always so. When central banks used models based on time series econometrics, the idea was to explain the data as far as possible. Good empirical work attempted to encompass previous findings. Before RBC, even people writing theory papers would appeal to time series evidence as well as theory in justifying the relationships they used, and there were many more attempts in the literature to estimate consumption functions, investment functions and the like.

Now this did not stop macro making big mistakes, as the 1970s showed. But the current attitude to models and evidence is the result of a particular methodology, and is absolutely not inherent to macro.


(拙訳[投稿日時は省略])

ノアピニオン氏
でも、その話は僕の疑問に依然として回答を与えてくれない…なぜマクロ経済学者たちは、どのモデルがいつ有効か(従っていつどのモデルを使うべきか)ということが実際には分からない、ということを不満に思わないのだろう?
レン−ルイス
ノア、その点については同意見だ。しかし私の話のポイントは、常にそうだったわけではない、という点にある。中央銀行が時系列計量経済学に基づいたモデルを使っていた時代は、データを可能な限り説明しよう、という発想に基づいていた。優れた実証研究は、従前の発見をも包含しようと試みていた。RBC以前には、理論的な論文を書いていた人々でさえ、自分たちが用いた関係性の正当化に理論だけでなく時系列的な実証結果を援用していた。また、消費関数や投資関数などを推計しようとする試みが今よりも数多くなされていた。
1970年代の顛末が示したように、それによってマクロ経済学が大きな過ちを犯すことが防がれたわけではない。だが、現在のモデルや実証研究への態度は特定の方法論の結果であり、マクロ経済学固有のものでは決して無い。

*1:ここで言うイデオロギーここで取り上げたクルーグマン対Williamson論争で話題となった共和党vs民主党といった政治的イデオロギーではなく、ここまでレン−ルイスが論じてきた経済学の方法論に関するイデオロギーを指しているものと思われる。

*2:同記事は(池尾和人氏もツイートした)プリンストンのMarkus BrunnermeierとDelwin Olivanのスライドをベースにしている。