かつてドラエモン氏が2chに投稿したショートストーリー*1を想起させるタイトルだが、ノアピニオン氏が少し前にそういう趣旨のエントリを起こしている(原題は「A world without macroeconomists?」)。ツイッター上での議論を元に起こしたエントリで、当初は「経済学者がこの世から消えたら…」を考えていたのだが、それだと想定が難しくなり過ぎるので、マクロ経済学者に話を限定したとの由。
そのエントリでノアピニオン氏は、政策に助言するマクロ経済学者がいなくなれば、政策担当者はもっと危険な人々に助言を求めるようになるだろう、それよりはマクロ経済学者の方が――彼らのモデルの有用性に疑問符が付くにしても――まだましだ、と論じている。
それに対しロバート・ワルドマンが面白いコメントを2つ付けている*2。
A world without macroeconomists wouldn't be a world without economists who talk to journalists about the macroeconomy. The risk is that the voice of the economics profession will be trade theorists, economic historians, behavioral economists and finance economists such as Krugman, DeLong, C Romer, Goolsbee, Fama and Cochrane.
I actually think that macroeconomists have very little influence on macroeconomics as perceived by policy makers and the public. Summers is influential. He is also a total heretic (he didn't leave the field, the field left him). Blanchard and Woodford are influential macroeconomists and reasonable people.
The world has chosen not to benefit from the insights of the most influential academic macroeconomists Robert Lucas and Edward Prescott. I don't think you think this is a bad thing.
(拙訳)
マクロ経済学者のいない世界は、マスコミにマクロ経済学について語る経済学者のいない世界ではないだろう。その場合の危険性は、経済学者の声が、貿易理論家、経済史家、行動経済学者、ファイナンス経済学者になる、ということだ――クルーグマン、デロング、クリスティーナ・ローマー、グールズビー、ファーマ、コクランのような。
実際のところマクロ経済学者は、政策担当者や一般市民にとってのマクロ経済学にあまり影響力を持っていない、と私は思う。サマーズは影響力を持っているが、同時に完全な異端者でもある(彼が経済学のもとを去ったのではなく、経済学が彼のもとを去ったのだ)*3。ブランシャールとウッドフォードは影響力を持つマクロ経済学者で、話の通じる人たちだ。
世界は、学界で最も影響力を持つマクロ経済学者であるロバート・ルーカスとエドワード・プレスコットの洞察の恩恵を受けないことを選択した。それが悪いことだと貴君は思っていないだろう。
このコメントに対しては、そうした経済学者にマクロ経済学者が影響を与えるという間接的な影響を無視している、という反論コメントが付いており、本文の追記でノアピニオン氏もそれに類したことを述べている。
I think you go to easy on the macroeconomists who say their models are good for policy analysis even if they aren't good for forecasting. To be useful for policy analysis a model has to approximate reality. There are two known ways to see if this is true of a model. One is to treat it as a null hypothesis and test it. Macroeconomists are absolutely unwilling to do this. The other is to use it to make out of sample forecasts and compare them to data.
Poor forecasting ability means there is no evidence that the model is of any value or interest whatsoever.
I will restate the argument you quote without affecting its validity at all "Voodoo priests will gladly tell you that modern models are not a lot of use in forecasting - that their main use is in giving policy recommendations, conditional on your assumptions (i.e. 'If for whatever reason you believe that the economy works this way, here's what you should think you can do with policy.')"
An argument which begins "if you believe" can't possibly justify well my salary for example.
Also no one believes in DSGE models. The full argument is "Friedman methodology .. even if you don't believe the economy works the we assume when making models, you can't be sure our advice is wrong, and Lucas critique if you don't believe the economy works the way they assume when making models then their success in fitting data doesn't imply you should pay attention to their policy evaluation."
I consider both arguments valid. I know I don't know I "can't be sure" and that empirical results don't imply. So I know I know nothing useful.
In short neither I (the macroeconomist) nor you (the policy maker) have a clue. So pay me a salary (oddly they do).
(拙訳)
自分たちのモデルは予測に役立たないとしても政策分析には役立つ、と言うマクロ経済学者に貴君は甘過ぎる。政策分析に役立つためには、モデルは現実を近似しなくてはならない。あるモデルが現実を近似しているかどうかを確認するのには、2つの方法が知られている。一つはそれを帰無仮説として扱って検証することだ。マクロ経済学者はそれを非常に嫌がる*4。もう一つはサンプル外の予測を行ってそれをデータと比較することだ。
予測能力が乏しいことは、そのモデルには何らかの価値ないし興味を持つべき点が存在する証拠が無いことを意味する。
貴君のエントリ中の文言を以下のように言い換えてもそのまま成立する:「ブードゥー教の僧侶たち*5は喜んで次のように言うだろう、現代のモデルは予測にはあまり役に立たない、その主な目的は、あなたの与える前提条件の下に、政策の推奨を行うことなのだ、と。(即ち、『経済がこのように動くと何らかの理由で信じるならば、政策でできることについてはこのように考えるべき』というわけだ)」
「〜と信じるならば」で始まる議論は、例えば私の給料をうまく正当化できはしないだろう。
また、誰もDSGEモデルを信じてはいない。この辺りの話をまとめると、こういうことになる:
- フリードマンの方法論
- 我々がモデルを構築する時の仮定通りに経済が動くと信じていなくても、我々の助言が間違っているとは確言できまい。
- ルーカス批判
- 彼らがモデルを構築する時の仮定通りに経済が動くと信じていないならば、彼らのモデルのデータの当てはまりが良いことも、彼らの政策評価に注意を払うべきことを意味するわけではない。
どちらの議論も私の目から見て有効だ。「確言できない」かどうか分からないことは分かっているし、実証的な正しさが政策評価の正しさを意味しないことも分かっている。ということで、私は自分が有用なことを何ら分かっていないことを分かっている。
つまり、私(マクロ経済学者)もあなた(政策担当者)も五里霧中、というわけだ。だから給料を払って欲しい(と言うと、奇妙なことに彼らは払ってくれる)。
このコメントに対してノアピニオン氏は、ワルドマンの見解に賛成なので、予測を軽視するマクロ経済学者に甘いことはない、と応じている。