地理的条件と経済成長

最近またサックスとイースタリーの間で開発経済に関する論争が再燃している。Economist's Viewでは、「アフリカ援助に関する泥仕合(Mud-Wrestling on African Aid)」と題された5/27エントリ、および5/29エントリ5/30リンク集で一連の論争が紹介されている。


今回の論争の特徴は、2人の直接対決というよりは、ダンビサ・モヨ(Dambisa Moyo)というアフリカ出身の女性エコノミスト、ないし彼女の書いた「Dead Aid: Why aid is not working and how there is another way for Africa」という本を間に挟んだ論争になっている点である*1。従って、モヨ自身も論争に登場している。


論争は主にHuffington Postを舞台に行なわれ、まず5/24記事でサックスが口火を切っている。そこで彼は、奨学金のお蔭で教育を受け成功したモヨが、後進に対する援助を切るように提言をするのはおかしい、と指弾している。そして返す刀で、イースタリーのことも、米国国立科学財団の援助を受けていながらその援助を批判している、と指弾している。

これに対しイースタリーが5/25記事で、モヨが5/26記事で反論している。いずれもサックスの非難を事実誤認に基づく個人攻撃として強く反発している。つまり、イースタリーは援助の非効率性を批判し、モヨはアフリカの自立の必要性を主張しているが、両者とも人道的支援の必要性は認めているのに、サックスによって単なる援助反対論者に仕立て上げられている、というわけだ。

サックスはこのうちモヨの反論に焦点を当てた再反論を5/27に書いている(ジョン・W・マッカーサーとの共著)。彼はそこで、以下の2点をモヨの側の事実誤認として批判している。
[1.アフリカの貧困層についての認識]

モヨの主張
アフリカは全体的に40年前より状況が悪化している。1970年代には極度の貧困層は10%以下だった。今日、サハラ以南では70%以上が一日2ドル以下で生活している。
サックスの反論
世界銀行の調査では、一日2ドル以下の層は1981年は74%で、2007年は73%だった。もっと以前の統計でも持続的な貧困が確認される。そうした貧困は1960〜70年代の各国の独立に始まり、今も続いている。GDP以外の統計では、たとえば新生児の死亡率は1970年の1000人当たり229人から2007年には146人に、大人の識字率は1970年の27%から2007年の62%に、小学校入学率は1991年の53%から2007年の70%に改善している。援助はこうした改善の助けになったが、1960年以来アフリカ人一人当たり年平均35ドルに留まっており、十分とはいえない。そのため、貧困の罠を破って援助依存体質から抜け出すに至らなかった。

[2.マラリア対策としての蚊帳の必要性についての認識]

モヨの主張
蚊帳をばら撒くよりは、アフリカ人に自分たちで作らせれば良い。24歳以下のアフリカ人の60%以上が、同情ではなく仕事を必要としていることを忘れてはならない。
サックスの反論
モヨは何億人ものアフリカ人が死に至る病の危険に曝され、実際に2億人がその病気に罹り、100万人の防げた死が一年間に発生しているにも関わらず、アフリカ製ではない蚊帳は使うな、と言うのか。実際、アフリカでの耐久性蚊帳の生産は、数年前はゼロだったが、今は年間数百万に達し、それに伴い数千の雇用も生まれている。また、マラリア抑制のための地域のヘルスワーカーももうすぐ十万人に達する。そして、マラリア抑制によって病院が空になり、父母は職場に、子供達は学校に戻り、経済の生産性も上がっている。


マラリア対策とそのための蚊帳についてはサックスが近年力瘤を入れているところであり、それへの批判には過敏と言えるほど反応している。実際にその対策が彼が言うほど薔薇色の結果をもたらしつつあるのかは、小生には判断がつきかねるところではあるが…。


このサックスの再反論については、モヨよりも先にイースタリーが自身のブログの5/29エントリで反応している*2。そこでイースタリーは、サックスの上記1番目の反論について、アフリカへの援助は、健康や教育で成果を上げるのに十分で正しい目的に使われたが、経済成長には十分ではなく正しい目的に使われなかったということか、と揶揄している。

また、イースタリーは、サックスがアフリカの貧困の要因として地理的条件――すなわち熱帯の多雨性の気候、多くが内陸国であること、病原菌を媒介する蚊――を挙げていることを強く批判している。各経済学者の研究によれば、そうした地理的条件よりも政府の方が問題であることが実証されているのに、サックスはそれらの研究結果を無視している、というのがその批判のポイントである。


このエントリのコメント欄では、サックスの反論にイースタリーが十分に答えていない、という指摘がなされたが、イースタリーはそれはモヨの問題で、自分はただサックスの論説で異論がある部分を取り上げただけだ、とにべも無くはねつけている。
また、別のコメントでは、地理的な悪条件が政府の劣化を生み出す側面もあるのではないか、という指摘もされている。同時に、地理と経済の関係は最近注目されているし*3、内陸部ならば海外への輸出に輸送コストが掛かるのは事実だろう、という指摘も見られる。


なお、イースタリーと言えば、先日ロドリックとの産業政策を巡る論争を取り上げたが、それについて興味深い指摘――今回のエントリにも関連すると思われる指摘――を見つけたので以下に紹介しておく。具体的には、イースタリーの最初(5/14)のエントリを紹介したデロングブログでのコメントである。

This analysis segues from conditional probabilities to necessary vs sufficient conditions without the author noticing the change of subject. If only countries with industrial policies modernized then, even if not all countries with industrial policies modernized, countries wishing to modernize would do well to install an industrial policy.

What Easterly needs is at least one example of a country that modernized without an industrial policy. Candidates, anyone?

(拙訳)この分析は、著者が気づかないうちに、条件付き確率の話から必要条件対十分条件の話に話題がすり替わっている。もし産業政策を実施した国だけが近代化したならば、たとえ産業政策を実施した国が皆近代化したわけではなくても、近代化したい国は産業政策を実施した方が良いだろう。
イースタリーが必要なのは、産業政策抜きで近代化した国の例を最低一つ挙げることである。誰か候補を思いつく人?

このコメントでのイースタリー批判は、そのまま今回のエントリにも当てはまるように思われる。すなわち、劣悪な地理的条件を克服することが、経済発展にとって十分条件でなくても必要条件であるならば、そのための援助政策は実施した方が良いだろう。そう考えると、この点におけるイースタリーのサックス批判はやや奇妙に映る。


ちなみに現在の先進国の経済危機について、クルーグマンやデロングは財政だろうが金融だろうがやれることはすべてやろう、というスタンスを取っている(cf. 本ブログのこのエントリクルーグマン・与謝野対談田中秀臣氏の最新エントリ)。それに対し、マンキューらは、これまでの実証結果などから財政政策の有意性に疑問を投げ掛けている。発展途上国の経済成長を巡るサックスとイースタリーの対立も、基本的にはその対立と同様の構図のように見える。

*1:モヨについては日本語ではこのエントリを参照。

*2:その前のイースタリーのこの件に関するブログエントリは5/245/255/26の各エントリ参照。

*3:このコメンテーターは触れていないが、確かにクルーグマンノーベル賞受賞の対象業績の一つである。