天にまします我らの中国よ、願わくはみ成長率をあがめさせたまえ

というエントリをイースタリーが書いている経済学101経由のhttp://ipeatunc.blogspot.com/2010/10/william-easterly-is-shrill.html経由。原題は「Our China who art in heaven, hallowed be thy growth rate」で、この祈りの文句のもじり)。


以下に拙訳でそのエントリを紹介してみる。

ニューヨーカーに、中国の指導者と中国人経済学者ジャスティン・リンをひたすら賛美する記事が掲載された。
自分の好きな雑誌が、経済成長に関するあらゆる誤謬を犯すことを狙ったかに思える記事を掲載しているのを見るのは悲しいものだ。その中でも最大の誤謬は、高い経済成長率を達成しているならば、現在の専制的支配者とその経済顧問は神に違いない、というものだ。
(きつい言葉遣いについてはお詫びする。自国政府についてニューヨーカーのライターほど熱狂的になれない中国市民を誰彼構わず殺害し、殴打し、監禁する党に対してあれほどの賛辞を羅列することに、今、本当にムカついていることが分かってもらえるかな? しかも、その政策を他国に推奨しているのだよ?)


然るべき論理と実際の証拠を見ていこう。

  1. 慈悲深い専制君主の神話について書いた以前のエントリを見てくれ(ニューヨーカーのライターに対し公平を期すために言っておくと、彼もダニ・ロドリックの同様の主張に末尾で簡単に触れている。しかしそれは、長々と美化の文句を連ねた後の言い訳のように見える)。
  2. 急速な成長というものは決して無限に続くことは無い。従って、今日の成長率を基に、中国が日本、米国、神、等々に追いつくと予測した御託は無視して構わない。
  3. 上の第2項についてもっと考察してみよう。経済成長率はパフォーマンスを表す信頼すべき指標では無い。重要なのは所得水準だ:
    1. 中国の一人当たり所得は、現在、米国の13%の水準に過ぎない。
    2. 経済成長率というのは所得の変化であることを覚えておこう。変化というのは二つの要因からなる:
      1. 現在の状況がどれだけ良いか
      2. 以前の状況がどれだけひどかったか
        • 中国は変化の方程式におけるこの二番目の要因について、折り紙つきの素晴らしい成績を収めた。その昔の専制的な皇帝や政治的混乱は言うに及ばず、1946年から1976年までは全体主義を旨とする狂人が権力を握り、何百万人もの死と、飢餓への大躍進と、文化大革命をもたらした。
    3. その毛沢東が公式に設定した「完全な狂人による破壊的」水準を基準とするならば、今日の市民はより自由になったと言える。しかし依然としてそれほど自由とは言えない。
    4. 先ほど、本当にムカついている、と言ったかな?

ということで、中国の急速な経済成長のレシピを言い換えると、概ね次のような感じになる:
次から次へと現われる狂った専制君主と政治的混乱と戦争によって、歴史的に見て最も発明の才に富む部類に属する人々がひどく抑圧された。しかも、海外に散らばった商人としては歴史上最も成功した部類に属する華僑が中国国内で事業を営むことが許されなかった。その後、少し情勢が落ち着き、以前ほど狂っていない統治者が、人々のエネルギーと創造性が噴出することを許した。すると、あら不思議、非常に悪い状態からそれよりは悪くない状態への変化が「成長率」と呼ばれるようになり、その成長率は高いものとなった。今やそれが世界中からの崇拝を集めているわけだ。


なお、このエントリの追記では、当のニューヨーカー記事を書いたEvan Osnosからイースタリーに寄せられた反応が掲載されている。その中でOsnosは、経済成長への見解に関して自分はイースタリーに大いに同意する、と強調している。そして、イースタリーが言挙げするようなリンに対する翼賛記事を書いたつもりは無く、単に彼のバックグラウンドを説明する記事を書いただけだし、また、ロドリック以外にも4人の批判者の意見を紹介している、と弁明ないし反論している。



ちなみに以前、小生も、イースタリーと中国(やロシア)の経済成長を巡って軽く接触したことがあった。その時もイースタリーが、悪い政府は経済の発展に取って阻害要因だ、ということを強調していたので、では中国は悪い政府では無いということか、と問い掛けたところ、冗談では無い、と言わんばかりの反応をもらった。でも中国はアフリカの最貧国などから見れば羨むべき成功を収めていますよね、と重ねて問い掛けたところ、それについての返事は無かった。
言ってみれば今回のエントリは、小生にとって、その2番目の問い掛けへの回答に相当する。その意味で個人的に興味深かったのだが、同時に、予想以上に彼は理想主義的なのだ、ということを印象付けられた。クルーグマン最近書いたように、経済学は道徳劇では無い、というのが経済学者の一般的な見解かと思われるが、そうした風潮に反し、イースタリーはあくまでも道徳を追い求めているかのように見える――時として過剰に思えるほどに*1

*1:さらに言うならば、彼の毛沢東観は、梶ピエール氏がここでまさに批判したような単細胞的な見方そのものであるように思われる(「悪漢」どころか「狂人(psycho、wacko)」扱いしている;その点はコメント欄でも批判を受けている)。