経済学者とブログ

night_in_tunisaさんが紹介したNick Rowe最新ブログエントリが大変面白い。そのエントリでRoweは、以下のようなことを書いている。

  • 2008年7月以降サバティカルに入ったが、その後金融危機が訪れた。それ以降、1日に何時間も経済や金融のブログを読んで過ごしている。というのは、マクロ経済学者としては金融危機について知らないふりはできないが、その日々変化する状況を理解する上において、速報性の面でブログにかなうメディアは無いためである。
  • Stephen Gordon(Roweがエントリを書いている共同ブログ=「Worthwhile Canadian Initiative」の開設者)のお蔭で自分もブログを書くようになったが、それによって経済学について真剣に――それほど真剣に考えたのは大学院以来というほど――考えるようになった。
  • 自分と考え方の異なる経済学者や非経済学者から学び、議論できた経験も、ブログなしには有り得なかった。
  • とはいうものの、学長にサバティカル期間中に何をやっていたかと訊かれて、ブログやってました、とは答えづらいものがある…。

以上はnight_in_tunisaさんが引用した最初の箇所のまとめだが、個人的にはむしろその後の方が面白かった。

  • ブログは自分を良い教師にすることに役立った。多くの経済学者は、自分は教師である前に研究者である、と言いたがるが、実際に給与の対象となるのは教職であるし、大部分の経済学者にとって、後々まで残る重要な影響は、研究よりもむしろ学生に与えた影響である。
  • ブログは、2つの面で自分を良い教師にすることに役立った。一つは、金融危機についてきちんと語れるようになったこと。現下の問題を語ることによって学生の経済学への興味を掻き立てるのは、教える内容と同じくらい重要なことだ。
    もう一つは、経済学を分かりやすく説明する技術を身につけたこと。
  • 学者は象牙の塔を出て世間と交わるべし、とはよく言われることだが、ブログはその有力な手段になる。
  • ここまで重要な問題を避けていることは分かっている:
    「研究の発表と比べて、ブログってどうよ?」
    …知らん。それに何を書いても自己弁護に聞こえるだろう。
  • ブログも別の手段による発表と言える。(書籍や学術誌やワーキングペーパーと同様に)ブログも対話の一形態であり、しかも記録された対話、かつ公開対話である。誰もが発言内容を目にすることができる(実際、高価で入手しにくい書籍や学術誌論文よりはるかに目にしやすい)。
  • ブログも他のブログに引用される。ちょうど学術論文が他の論文に引用されるように。引用は好意的な場合もそうでない場合もあるが、それも論文と同様。
  • ブログもレフェリーを受ける。特にコメント投稿者によって。確かに大部分のコメントは匿名だが、それは学術誌のレフェリーも同じだ。それにブログでは誰もがレフェリーになれる。ということは、似たような考えの持ち主が集まった小集団で、お互いがお互いのレフェリーを務めて馴れ合いになるリスクが小さいということだ。
  • もちろん大きな違いもある。学術論文は発表前にレフェリーを受けるが、ブログは発表後に受けることになる。大学のワーキングペーパーだって発表前に何らかのレビューを受ける。それに対し、ブログでは誰もが何でも投稿できる。
  • 自分が思うに、時としてブログ記事はレフェリーを受けた学術論文とおなじくらい内容的に優れている。学者風の文章の刈り込みがなされていないかもしれないが、それとて欠点というわけではまったくない。しかし、大部分のブログ記事はそうでもないし、そもそもそれを意図してもいない。そして、とてもひどいブログ記事もある。
  • 自分のブログ記事が誰かの上級学年課程向けの読むべきリストに入っているのを見つけたら本当に嬉しくなる。好意的なレフェリーのレポートより価値があるくらいだ。まあ、ごく稀にしかそういうことはないが。
  • 読者数はブログのインパクトを測る一つの指標だ。しかし読者数を気にするなら、新聞記事がレフェリーを受けた学術論文より価値があることになってしまう。
  • ブログについては、実際に読む以外にその質を確かめる方法は今のところなさそうだ。「AERに1論文、CJEに2論文」、というような楽な判定方法は無い。それは大きな違いだ。
  • 幸いにも、私は年を食っているし、テニュアも持っているので、この問題を解決しなければ困るわけではない。テニュアの良いところは、大学教授に、通常とは異なる道にさ迷い込む自由を与えることにある――成果が出る出ない、注目を集める集めないにかかわらず。
    ということで自分は、通常と異なるメディアにさ迷い込むことにしよう。…もっとも普通の論文も二、三編書いた方が良さそうだが。


このエントリには、民間やメキシコや米国の経済学者から、自分も同様に思う、というコメントが寄せられている。また、ブログ創設者Stephen Gordon自身もコメント欄で賛意を表明し、そもそも自分がこのブログを開設したのは、カナダ人経済学者のブロガーがあまりに少ないことに危惧を覚えたためと、カナダの経済論評の質を上げるためだった、と書いている。一方、三文記者を名乗る人物からは、RoweやGordonの努力を多としながらも、もう少し一般だけでなく同僚の経済学者にも批判的な目を向けたら、という注文をつけている。


このエントリが個人的に面白かったのは、最近econ2009さん経由で、上記とは対照的な論調の以下のブログ記事を読んだせいもある。

そもそもだ、普通の研究者はブログなどで自分の研究テーマを安易に主張することなどできない。せいぜい最近パブリッシュした自分のペーパーを紹介する程度だ。正しく議論をしようとすると、前提となっている知識や学問のコンテキストを共有しないといけないからだ。だから、勢いブログにあるものは、BS(引用者注:"Bullshit"のこと)だけになりがちなのだ。これはどの国でもそうで、現に現在行われているUSの経済学者間の不況対策論争などみても、BSだけが先行している。


そう、アルファブロガーの無根拠なアジテーションはバカのリトマス試験紙/フェノールフタレインになっているのだ。webだとかブログだとかばかりを読んでると、頭にかざしたバカ判定リトマス試験紙が赤くなったりバカ判定フェノールフタレインが赤紫になったりしちゃうかもよ。ブログに書いてあるのはデフォルトでバカな主張かBullshitだと決めつけ(もちろんこのブログもだ)、検証可能な主張と根拠が体系的に記述されている本、議論の前提と範囲が明らかになっている論文、知識のビルディングブロックとなるべきチュートリアルを読んだり聴いたり視たりして、自分の頭で考えようぜ、と主張しちゃうとこれは見事に自己言及的な矛盾になってしまうのだが。

ディナーの味とブロガーのアジについて : wrong, rogue and log

このブログ主の柏野さんは、同エントリのコメント欄でさらに以下のように書いている。

またこれはあくまで私見なのですが、ブログでは学問や科学の発展的な議論は起きないと思います。正しいリテラシーとコンテキストを共有したメンバーかどうかの判断ができないことが、正常な議論の基盤として全くダメだと思います。ノイズやスパムやつまらない揚げ足取りに対処しなければならないという対応コストの問題もあります。また、数式やグラフに対するHTMLの表現力があまりになさすぎること、作成の時間コストがかかりすぎることも別の要因として関係しているでしょう。

成功しているフリーソフトウェアオープンソースソフトウェア開発(プロフィールと自分のスキルを明らかにした中で実際の動作するコードをコミットする)のように、議論を積み重ねることができ、版管理、そして議論のテストと結果のフィードバックが可能になるメディアが出てくるのでしたら、発展的な知識の基盤としてかなり可能性はあると思います。この意味では、wikipediaなどはそれに少しかすっているかもしれませんが、ブログやミニブログSNS掲示板はやはりダメなように思います。


どのような工夫をこらそうとも必然的にbull shitになるのがブログやミニブログSNS掲示板であり、それこそがこういったメディアの正しいあり方だと思います。

現在パラ読みしているAcemogluの教科書(この大著は面白いです。工夫をすれば実際に計算機で試すことが出来ますし)をチラ見して思うのですが、現代のようにコンピュータが浸透しまくり、適切なツールがオープンな状態で手に入り、誰もがモデリングができる世の中になってしまうと、重要なのは実装でありモデリングなのです。モデリングをし、まずは計算してみてナンボのものなんです。そしてそのモデリングをしたものは、広くアクセスできるようにするべきなのです。


経済論壇や経済系のブログで活躍している経済学者にありがちな、根拠の薄弱なアジテーションや「経済学的思考」なるものから自然と出てくるところになっている提言の類は全てBullshitと位置づけてもいいと、僕は思っています。

柏野さんの言うことにも一理あると思うが、ブログがBullshitなのは、それがより現実に近いメディアであるためだと思う。世間に出てある程度の歳月を過ごした人間なら誰もが知っている通り、現実というのは所詮はBullshitに満ちた世界であるので、現実をより反映しやすいメディアでBullshitの比率が高くなるのは避けられないだろう。
ただ、そうしたBSまみれの世の中にも優れた人間はいるもので(柏野さん自身が直近のエントリでその例を挙げている)、Gordonがカナダで試みたように、日本でもそうした人たちをブロゴスフィアに呼び込めば、全体の質を向上させ、悪貨を駆逐と言わないまでも中和させることは可能だという気が個人的にはしている(現在、日本で実際にそうした試みをしているのが、柏野さんの批判の対象になった経済学者だというのも皮肉といえば皮肉だが)。

また、米国の経済論争もBSに過ぎない、という点については少し同意しかねる。残念ながら、物理や数学と違い、経済理論の完成度の高さがそのまま現実描写の正確さにつながらないのが(少なくとも現段階の)経済学の世界であり、その点で柏野さんは経済学のモデルに幻想を抱いているように思われる。クルーグマンが良く言うように、経済学ではモデルはメタファーに過ぎないのである。そうした経済学の現状の下で、それでも何とか自分の経済学の知見を基に政策提言をしようという姿勢をBSの一言で斬り捨てるのは、やや傲慢に過ぎるように思われる。