オーストリア学派はなぜ学術誌から冷遇されているのか?

について論じた論文(WPはここ)をUDADISIが紹介している。論文のタイトルは「Understanding Academic Journal Market Failure: The Case of Austrian Economics」で、著者はScott Alex Beaulier(マーサー大学)とJ. Robert Subrick(ジェームズマディソン大学)。
以下はWPの結論部。

The failure of Austrian economics to penetrate mainstream journals arises from two factors. The first is that Austrian-oriented economists tend to focus on topics that mainstream journal editors do not. This does not imply that Austrian economists do not pursue research programs that yield new insights. Rather, they do not engage the majority of other economists. Second, Austrian-oriented economists present their ideas in a form that does not easily illicit discussion. In essence, they have raised the costs for mainstream economists of engaging in dialogue with Austrians, potentially signaling an unwillingness to engage in debate. The evidence does not suggest systematic discrimination by the journal editors or referees; quality Austrian ideas do appear in mainstream journals when presented in a fashion that transmits the ideas in a low-cost manner. For example, Shleifer’s recent writings and citations demonstrate that Austrian ideas do resonate with many economists.
Self-selection offers a better explanation for the limited appearance of Austrian ideas since the 1970s. They have failed to present their ideas in formats that many economists use. The self-selection may reflect a desire for product differentiation on the part of self-identified Austrians, but it inhibits debate in first and second tier journals.
(拙訳)
オーストリア学派経済学が主流派の学術誌に浸透できないのは2つの要因による。一つは、オーストリア学派系の経済学者が、主流派の学術誌の編集者があまり興味を示さないテーマに焦点を合わせるきらいがある点である。このことは、オーストリア学派の経済学者は新たな洞察をもたらす研究テーマを追究しない、ということを意味するわけではない。彼らは多数派の他の経済学者と交わらないのである。二つ目は、オーストリア学派系の経済学者が、議論を容易に展開できる形で自分たちの考えを提示しない点である*1。つまるところ、彼らは主流派経済学者が自分たちと会話するコストを吊り上げてしまったのであり、議論したくないというシグナルを暗に発してしまったのである。学術誌の編集者やレフェリーが組織的に差別した、ということを示唆する証拠は存在しない。実際、低コストの手法で考えを伝達するやり方で提示された場合、オーストリア学派の質の高い考えは主流派の学術誌に掲載される。例えば、シュライファーの最近の著述や引用は、オーストリア学派の考えが実際に多くの経済学者の共鳴を呼ぶことを示している。
1970年以降、オーストリア学派の考えが学術誌にあまり現れなくなったことは、自己選択で良く説明できる。彼らは、多くの経済学者が用いている仕様で自分たちの考えを提示できなかったのである。そうした自己選択は、オーストリア学派を自任する側が製品の差別化を図ろうとした結果かもしれないが、一流誌ないし二流誌で議論する途を閉ざすことにもつながった。

*1:ここでillicitはelicitのtypoと解釈した。