不作為の罪と経済学の慣行

という小論をジョージ・アカロフ書いている(原題は「Sins of Omission and the Practice of Economics」、H/T タイラー・コーエン)。
以下はその要旨。

This paper advances the proposition that economics, as a discipline, gives rewards that favor the “hard” and disfavor the “soft.” Such bias leads economic research to ignore important topics and problems that are difficult to approach in a “hard” way—thereby resulting in “sins of omission.” This paper argues for reexamination of current institutions for publication and promotion in economics—as it also argues for greatly increased tolerance in norms for publication and promotion as one way of alleviating narrow methodological biases.
(拙訳)
本稿は、経済学が学問として「ハード」を好み「ソフト」を疎んじる方向で研究者に報いている、という主張を展開する。そのようなバイアスにより、経済学の研究は「ハード」なやり方でアプローチするのが難しい重要なテーマや問題を無視するようになり、それによって「不作為の罪」に陥った。本稿は、現行の経済学での出版や昇進の制度を見直すように求めるとともに、出版や昇進の規範を大いに寛容なものとすることを、偏狭な方法論上のバイアスを緩和する一つの方法として論じている。

アカロフは、ここで言う「ハード」「ソフト」の区分の祖をオーギュスト・コントに求め、科学の中の序列を物理学を頂点とし社会学文化人類学や歴史を底辺に位置付ける考え方、としている。経済学内で言えば、数学で厳密な定量化を行うほど「ハード」ということになる。

アカロフによれば、経済学がハード志向になったのは以下の理由による。

  1. 科学のヒエラルキーにおける位置
    • 経済学は自らを社会科学で最も科学的と任じている。
  2. 評価プロセス
    • 評価の際、より厳密である、ということの合意は容易だが、重要性についての合意は難しい。
  3. 経済学者の選択バイアス
    • 経済学者の主流がハード志向になれば、論文や昇進もハード系にバイアスが掛かり、それが経済学者のハード志向をますます強める、という負の循環構造が生じる。

こうしたハード志向によって生じた弊害として、アカロフは以下の3つを挙げている。

  1. 新しいアイディアへのバイアス
    • 新しいアイディアはハード系ツールがまだ整備されていないため、提示および検証において古いアイディアより不利となる。
  2. 過度の専門化
    • ハード志向の下では、スペシャリストとなることの方がジェネラリストとなるより有利。
  3. トップ・ファイブの呪い
    • テニュアを認定する委員会が、候補者の研究の質を評価する際の基準として、五大誌への掲載に頼るようになる(cf. ここ)。

また、ハード志向の結果生じた不作為の罪の例として以下を挙げている。

  • 金融危機の予測の失敗
    • 細分化された各分野では危機の兆候が揃っていたが、それをまとめ上げて危機の予測に近いところまで行った経済学者はラジャンだけだった。
    • バレロの言うこと(cf. ここ)を敷衍すれば、そうした危機の証拠をすべて揃えたモデルは、DSGEに比べてソフト過ぎるものとなり、論文は掲載できないだろう。
    • また、仮にAIGの5530億ドルの証券保険という数字を入手しても、それは金融システムを引き倒すテールリスクを十分に示す数字ではあるが、そうした単一の数字では論文は書けない。
  • 動機付け
    • 人々は何かを最大化するだけでなく、物語によっても動機付けられる。以下の4つの事例は、経済学で過小評価されてきた物語の重要性を示している。
      1. ソ連
        • ソ連の失敗を中央計画経済の失敗に帰す分析は、同じくらい重要な、ボルシェビキが流布した「物語」の負の側面を無視している。彼らは、計画経済を進めれば経済のパラダイスが待っているのだから、少しの障害も厳しく罰するべき、という物語を掲げて欠陥のある計画を推進し、ホロドモールを引き起こした。
      2. 喫煙と健康
        • 喫煙に関する経済学は、禁煙運動が提示した物語の果たした役割を過小評価している。
      3. 地球温暖化
        • 地球温暖化は虚偽、という物語のせいで、人々の温暖化への認識が進んでいない。これは温暖化の物理的現実そのものと同じくらい重要な話。
      4. マクロ経済学
        • シラーによれば、大恐慌は貨幣供給の不足によって深刻化した、というフリードマン=シュワルツの説は、除外変数によって誤って導かれたもの。その除外変数とは、人々が自らに言い聞かせた物語で、その物語により、大恐慌が深刻化し収入が減るにつれ人々の貨幣保有意欲が減少した。

以下は結論部の一節。

The norms regarding how economics should be done should call for flexibility of methodology—instead of insistence on methodological purity that might be perfect for some Important problems, but leaves other problems and other approaches outside the domain of economic research.
Historically, those paradigms—norms for how economic research should be done, and also for what constitutes “economic research”—have developed out of an evolutionary process. Neither the optimality of the resultant conclusions of the field nor of the resultant institutions for economic research can be taken for granted. At the journals, the norms for what should or should not be published, and the selection of the editors and the referees, and their conduct, should be the subject of examination. Likewise, at the universities, the processes of promotion and tenure should also be examined. Just as medicine in the United States was famously influenced by the Flexner Report of 1910 (Starr 2008), there is a need for a similar report today on publication and promotion in economics.
(拙訳)
経済学をどのように行うべきか、ということに関する規範では、方法論の柔軟性が要求されることになる。ある重要な問題については申し分ないが、別の問題や方法を経済研究領域の外に放置するような方法論の純粋主義への固執は、そうした柔軟性によって置き換えられるべきなのである。
歴史的に言えば、経済学をどのように行うべきか、および、何が「経済研究」の一部となるか、という規範についてのこうしたパラダイムは、進化プロセスを辿って発展してきた。その結果生み出された経済学分野の結論や経済学研究の制度は、当然最適である、と考えてはならない。学術誌では、何を掲載し何を掲載しないかの規範や、編集者やレフェリーの選任とその行動は、調査の対象とされるべきである。同様に、大学では、昇任やテニュアのプロセスが調査されるべきである。周知の通り米国の医学は1910年のフレクスナー報告*1に影響を受けたが(Starr 2008*2)、経済学の出版と昇任について今日同様の報告が必要とされているのである。

この後アカロフは、そのレポートに含めるべき内容について論じて論文を締め括っている。