経済理論はどこまで有効か

というエッセイをアーノルド・クリングがNational Affairs書いている(H/T Mostly Economics、原題は「How Effective is Economic Theory?」)。
そこで彼は、物理学者のリサ・ランドールの有効理論の考え方を経済学に当てはめている。

Instead of "science," we might want to think about economics in terms of "effective theory." As explained by Harvard physicist Lisa Randall,

Effective theory is a valuable concept when we ask how scientific theories advance, and what we mean when we say something is right or wrong. Newton's laws work extremely well. They are sufficient to devise the path by which we can send a satellite to the far reaches of the Solar System and to construct a bridge that won't collapse. Yet we know quantum mechanics and relativity are the deeper underlying theories. Newton's laws are approximations that work at relatively low speeds and for large macroscopic objects. What's more is that an effective theory tells us precisely its limitations — the conditions and values of parameters for which the theory breaks down. The laws of the effective theory succeed until we reach its limitations when these assumptions are no longer true or our measurements or requirements become increasingly precise.

Whereas the term "science" often is used to connote absolute truth in an almost religious sense, effective theory is provisional. When we are certain that in a particular context a theory will work, then and only then is the theory effective.
...
Over the last 50 years, questions about the effectiveness of economic theory have revolved around five interlocking subjects in particular: mathematical modeling, homo economicus, objectivity, testing procedures, and the particular status of the sub-discipline of macroeconomics.
(拙訳)
我々は経済学を「科学」ではなく「有効理論」として考えた方が良いのかもしれない。ハーバードの物理学者リサ・ランドールは以下のように説明している*1

有効理論は、科学理論がどのように発展するか、および、何かが正しいもしくは間違っていると我々が言う時に何を意味するか、を考える際に有用な概念である。ニュートンの法則は極めて上手く機能する。太陽系の遠方に衛星を送る経路を設定する時や、壊れない橋を建設する時には、それで事足りる。しかし我々は、より深遠な理論である量子力学相対性理論がその背後にあることを知っている。ニュートンの法則は、比較的低速かつ巨視的な物体について機能する近似に過ぎない。有効理論のさらなる価値は、その限界――理論が働かなくなる条件やパラメータ値――を正確に伝えてくれることにある。有効理論の法則は、仮定が成立しなくなる、もしくは我々の計測や要求水準がより厳密になることによってその限界に達するまで機能する。

「科学」という言葉はほとんど宗教的な意味で絶対的な真実を表す場合に使われるが、有効理論は暫定的なものである。特定の状況である理論が働くことを確信したならば、その場合、かつ、その場合のみ、理論は有効となる。
・・・
過去50年間、経済理論の有効性に対する疑問は、とりわけ相互に関連する5つの主題を巡って推移してきた。数学モデル、ホモ・エコノミクス、客観性、検証過程、そして経済学の一分野であるマクロ経済学の状況である。


クリングによれば、下記の本に記述されているように、1960年代半ばにはそれらの5つの概念に対する主流派の肯定的な評価が確立していた、という。

Structure of Economic Science: Essays on Methodology

Structure of Economic Science: Essays on Methodology


その上でクリングは、5つの概念に対するその後の経済学者の考え方の変遷を概ね以下のように辿っている。

  • 数学モデルに対する信頼性は1980年頃にピークを迎えたが、現在ではかつてほどの信頼は寄せられていない。
  • 行動経済学の発展によって、経済学者はかつてほどホモ・エコノミクスの合理性のモデル化に執着しなくなった。
  • 客観性については、最近、ポール・ローマーの数学もどき批判があった*2
  • 検証過程については、モデルに対するルーカス批判もさることながら、Edward Leamerの「Let's Take the Con Out of Econometrics」(1983)論文*3による計量経済学における検証の恣意性への批判がより重大な影響を与えた。現在では自然実験や実験経済学が主流となっており、かつての重回帰が主流の時代とは様変わりした。
  • スタグフレーションによってマクロ経済学は危機を迎えた。即ち、ケインズ経済学はその有効性が疑問視されるようになった。しかし、大平穏期を経て、金融政策を重視する形で一応のコンセンサスに達した。金融危機後も、危機から得られた知見を取り込む形でコンセンサスを維持している。


今後の展望についてクリングは以下のように述べている。

Although economics is not now in a state of abject crisis, as it was in the late '70s, it is nonetheless likely to be entering a period of great change on all five of the disciplinary challenges we have been tracing.
First, there is reason to believe that in the coming years economists will reluctantly come to recognize the importance of mental-cultural factors as determinants of economic outcomes, reducing the power of mathematical modeling as an approach.
...
Second, and very much related to the likely decline in the prominence of modeling, economists are likely also to reluctantly come to recognize that, because cultural factors matter, the simple model of the individual homo economicus has only limited applicability.
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Because ideas and cultural context matter, there are many potential causal factors in economic phenomena. Those curmudgeons who argued that economics is not a "closed system" were correct. It is up to each economist to choose which causal factors to study and which to ignore. Unfortunately, this means that it is possible for different economists to arrive at — and to stick with — different conclusions based on predilections.
And this points to the third plausible development in economic theory. There is a very real possibility that over the next 20 years academic economics will congeal into a discipline, like sociology today, which is definitively shaped by an ideologically driven point of view.
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Fourth, it seems unavoidable that economists will reluctantly come to recognize that they deal in the realm of patterns and stories, rather than decisive hypothesis testing. It simply isn't possible for economists and other social scientists to achieve the same rigor as is found in the natural sciences, and economists seem increasingly to be accepting this reality. One favorable sign is the increased focus on replicability of empirical work in economics.
...

Finally, we come to the special case of macroeconomists, who were in an acknowledged state of crisis in 1980 but are oddly complacent today. My own view is that the attempt to interpret economic phenomena in aggregative terms, as if all workers were identical and all investment were in machinery, is proving untenable. ...
A few economists, led by Daron Acemoglu, have started to look at industry linkages. They are finding that various industry clusters respond to events in different ways. This increasing study of divergence could point toward the death of macroeconomic modeling as I learned it in graduate school and as it has until recently been taught.
(拙訳)
現在の経済学は、1970年代後半のような恐るべき危機的状況には無いが、それでも、ここまで見てきた5つの学問上の課題すべてについてこれから大きな変化の時期に入る可能性が高い。
第一に、経済的帰結の決定要因としての心理的文化的要因の重要性を、今後、経済学者が渋々ながら認めるようになると信ずべき相当の理由がある。そのことは、数学モデルの手法としての有効性を弱めることになる。
・・・
第二に、今後起きるであろうモデルの失墜と深く関連する話として、文化的要因が重要であることから個人のホモ・エコノミクスという単純なモデルの適用範囲には限界がある、ということも経済学者は渋々ながら認めることになる可能性が高い。
・・・
思想と文化的状況が重要であることから、経済現象の原因となる候補は数多く存在する。経済学は「閉鎖系」ではない、と論じた気難し屋たち*4は正しかったのである。どの要因を研究しどの要因を無視するかの選択は、各経済学者に任されることになる。そのことが意味するのは、経済学者の好きずきによって到達し堅持する結論が異なる、という不幸な状況である。
そしてそこから、経済理論で起こり得る3番目の展開が導かれる。学界の経済学が、今後20年の間に、今日の社会学と同様、イデオロギーに基づく観点によって決定付けられる学問分野として固定化されてしまう可能性が確実に存在する。
・・・
第四に、決定的な仮説の検定ではなく、パターンや物語の話を自分たちは扱っているのだ、ということを経済学者が渋々ながら認めるようになることは避けられないように思われる。自然実験におけるのと同様の厳密さを経済学者や他の社会科学者が達成することは単純に不可能であり、経済学者はその現実を受け入れつつあるように思われる。経済学の実証研究の再現性にますます焦点が当てられるようになったことは、そのことを示す兆候の一つである。
・・・
最後に、マクロ経済学者という特殊ケースについてであるが、1980年には自他ともに認める危機的状況にあったものの、現在は奇妙な自己満足の状態にある。私自身の考えでは、すべての労働者が同一ですべての投資が機械であるかのようにして経済事象をマクロベースで解釈しようとする、というのは受け入れ難い。・・・
ダロン・アセモグルが率いる幾人かの経済学者は、産業間の関係を研究し始めている。様々な産業群は各種の出来事に対して違った反応を示す、ということを彼らは発見しつつある。このような多様性の研究が盛んになれば、大学院で私が学び、かつ、最近まで教えられていたマクロ経済学モデルに死が訪れる可能性がある。

*1:cf. ここ

*2:cf. ここ

*3:cf. ここ

*4:前掲書に寄稿したEmile GrunbergとKenneth Bouldingや、1980年のThe Public Interest(National Affairsの「前身」)特集号邦訳)「The Crisis in Economic Theory」に寄稿したダニエル・ベルを指すと思われる。