疑似実験法と構造モデルの得失

先月の20日紹介した計量経済モデル論争をノアピニオン氏も取り上げ、そこでDieboldがG1とG2に分類した問題への取り組み手法(ノアピニオン氏はそれぞれ疑似実験法と構造モデルと呼んでいる)について、概ね以下のようにまとめている

  • 疑似実験法は通常は線形モデルなので、曲線をある接点における接線で近似するようなもの。どこまで近似が成立するかは分からず、その点についてはベイジアンになるしかない。即ち、ここまでは成立するだろう、という想定を立てるならば、それが事前分布となる。
  • 実証でモデルの有効性を確認したデータから遠く離れたところでもそのモデルが機能すると信じるためには、構造モデルを信じるしかない。その場合、モデルは線形でも非線形でも良い。ここで「構造」が基本的に意味するのは、モデルに明示的に含まれない条件に左右されない要因を反映しているはず、ということ。「構造」を言い換えるならば、「実際に起きている(と自分が考える)こと」である。
  • 構造モデルの弱点は、良い構造モデルが極めて稀少であること。現実世界の経済環境は大抵において非常に複雑なので、構造モデル構築の際には前提として多くのことを捨象しなくてはならず、かつ、対象としたことは正しく定式化したと前提することになる。結果として、完全に馬鹿げた空想的なモデルが出来上がることが多い。
  • ならば構造モデルを検証し、データによって棄却されたならば使わなければ良い、と思うかもしれないが、そうなったら既存のモデルで生き残るものはほとんど無くなる*1。また、理論がデータに任意の正確性で適合する物理学ではないので、検証をどこまで厳しくすべきかも課題となる。多くの人は自分のモデルが正しいものとして可能な限り適合度を高め、推計パラメータを真実として報告することになる。

ノアピニオン氏は両手法を以下のように総括している。

So with quasi-experimental econometrics, you know one fact pretty solidly, but you don't know how reliable that fact is for making predictions. And with structural econometrics, you make big bold predictions by making often heroic theoretical assumptions.
(拙訳)
つまり、疑似実験計量経済学では、ある事実をかなりの確度で把握しているが、その事実が予測を立てる上でどの程度頼りになるかは分からない。そして構造計量経済学では、しばしば思い切った理論的仮定を立てることにより、広大かつ大胆な予測を立てる。

その上で、両手法は対立するものではなく両立するものでは、とAngrist=PischkeとDieboldの論争の裁定を試みている。ただ、20日エントリで紹介したように、DieboldはAngrist=Pischkeの手法を否定しているわけではなく、それが適用できない箇所もある、と言っているので、ここでのノアピニオン氏の「裁定」は、結局はDieboldと同じことを言っているに過ぎないように思われる。

*1:cf. ここで紹介したサージェントがルーカス(とプレスコット)の言葉として伝えた「そうした検定はあまりに多くの良いモデルを棄却し過ぎる」という台詞。