同情しないが金はやる

昨日のエントリでは、カプランの「deserving poor」と「undeserving poor」に関する議論を紹介した。その中でカプランは、「酌量に値するか否かを議論するのは無意味、という人もいるが、その見方には賛成できない」と述べていたが、「その見方」について同じGMUのタイラー・コーエンは以下のように論じている

There is the view that desert simply is not very relevant for a lot of our choices. We still may wish to aid the undeserving. Matt Yglesias adds relevant comment.

What about utility? Corrupt societies are inefficient, frustrating, and infuriating, but is more meritocracy utility-enhancing at all margins? I doubt it. Chess is a relative meritocracy, with clear standards for performance and achievement, but I am not sure that chess players as a whole are happier for this. Some ambiguity in one’s level of achievement can be socially useful and somewhat of a relief at the personal level. Life in a sheer meritocracy would be psychologically oppressive.
(拙訳)
情状酌量に値するかどうかは我々の選択の多くにあまり関係しない、という見方もある。我々は、酌量に値しない者もやはり援助したい、と思うだろう。マット・イグレシアスはこの点に関係するコメントを書いている。
効用についてはどうだろうか? 堕落した社会は非効率的であり、苛々させられ、腹立たしいものだが、実力主義の度合いが高いほどすべての限界効用が高まると言えるのだろうか? それは疑問だ、と私は思っている。チェスは成績と達成度の基準がはっきりしており、実力主義の度合いが高い世界だが、それによってチェスプレイヤーの幸福度が総体的に高まっているかどうかは疑わしいと思う。ある人の達成度の水準が曖昧なままである方が、社会的に有用であり、かつ、個人的にも幾ばくかの安心感をもたらす、ということがあり得る。純粋な実力主義における人生は心理的に息苦しいものとなるだろう。


このエントリでコーエンは、他にも様々な論点(複数均衡、自己充足的予言、決定論、果ては光速旅行時の倫理観の変化に至るまで)を挙げて、カプランの視点を相対化しようとしている*1
また、ノアピニオン氏のエントリの追記によると、氏が当初カプランとコーエンの主張を一緒くたにしていたのに対し、コーエンから、自分の見方はカプランよりも多角的だ、という主旨のメールが送られてきたとの由*2


なお、上記引用でコーエンが言及しているイグレシアスのコメントというのはこちら。そこでイグレシアスは、人的資本が成功を決定する社会と、遺伝的優秀さが成功を決定する社会、という二種類の両極端な仮想的社会を例に取り*3、そこで赤ちゃん取り違えが発生したらどうなるか、を考察している。
前者の社会の場合は、人的資本への投資が違ってくるので、取り違えられた赤ちゃんのその後の人生は大きく変わるだろう。従ってその社会では、社会政策による介入の必要性が存在する、という立論が可能だろう。
一方、後者の社会の場合は、遺伝ですべてが決まるので、何も変わらないだろう。その社会では、正義という観点から貧困者を援助する必要性が存在する、という立論が可能だろう。
またイグレシアスは、meritocracyという言葉はそもそも良い意味で付けられたのではない、ということ*4を論じた10年前のSlate記事にリンクしながら、人々が質の高い生活を享受している人間的な社会でない限り、実力主義社会は必ずしも素晴らしいばかりではない、とも述べている。



実力主義社会の米国での勝ち組とも言えるコーエンやイグレシアスから(しかもコーエンはリバタリアンでもある)、実力主義社会への疑問が投じられた、というのは小生にとってやや意外であった。その点では日本の一部の論者の方が彼らよりもよほど実力主義への崇拝が強い、と言えるかもしれない。

*1:そのような書き方はコーエンの特徴であるが、ここで紹介したケースでは、その手法が左派陣営からあらぬ反発を招いたのは記憶に新しい。

*2:ちなみにその追記の中で、上記引用部の"There is the view that desert simply is not very relevant for a lot of our choices. We still may wish to aid the undeserving."というのが自分の考えに近い、とノアピニオン氏は述べている(なお、エントリ本文中でノアピニオン氏は「deserve」を自業自得の意味で使っているが、その点でカプランの定義と逆になっているようにも見受けられる)。
また、このノアピニオン氏のエントリを受けてWCIブログのFrances Woolleyは、ピグマリオンマイ・フェア・レディの原作)の一節(イライザの父アルフレッド・ドゥーリトルがヒギンズ教授に金をせびりに来た時の台詞で、自分は情状酌量に値しない貧困者だが、かと言って酌量に値する貧困者よりも種々の需要支出が小さいわけではない、と主張している)を引用したエントリを立てている

*3:ただしどちらも米国社会には似ていない、と断っている。

*4:そのことはwikipediaにも記載されている。